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阿曇頬垂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
阿曇頬垂
時代 飛鳥時代
生誕 不明
死没 不明
官位 小花下
主君 皇極天皇孝徳天皇斉明天皇天智天皇
氏族 阿曇連
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阿曇 頬垂(あずみ の つらたり、生没年不詳)は、飛鳥時代豪族位階小花下遣新羅使

出自

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阿曇連一族は、ワタツミの神を始祖としており、「古事記」では「阿曇連は其の綿津見神の子、宇都志日金柝命(うつしひかなさくのみこと)の子孫(うみのこ)なり」とされ[1]、『新撰姓氏録』「右京神別」・「河内国神別」には、「安曇宿禰」・「安曇連」はともに地祇系の海神綿積豊玉彦神の子、穂高見命(宇都志日金拆命)の子孫と記されている。

発祥の地は『和名類聚抄』によると、筑前国糟屋郡志珂郷から阿曇郷にかけての地域(現在の福岡市東区志賀島から糟屋郡新宮町)が発祥の地とされており、志珂郷には、底津綿津見神・仲津綿津見神・表津綿津見神を祭る志賀海神社が存在する。摂津国西成郡には安曇江の地名もあり、現在の大阪市中央区安堂寺町にあたる。当初は九州の海人の長であったが、大和政権に帰属した段階で、摂津国安曇江に拠点を移し、海人部を統率する伴造の地位についたものと思われる。

記録

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日本書紀』巻第二十六によると、斉明天皇3年(657年)、

西海使(にしのみちのつかひ)小花下(せうくゎぐゑ)阿曇連頬垂(あづみ の むらじ つらたり)小山下津臣傴僂(つ の おみ くつま)百済より還りて、駱駝(らくだ)一箇(ひとつ)(うさぎうま)二箇(ふたつ)(たてまつ)

とある[2]。彼らがいつ、朝鮮半島に渡ったのかは不明である。

百済からラクダや驢馬(ろば)が貢納されたことは、『書紀』巻第二十二にも見え、推古天皇7年(599年)に、羊2頭、白い雉1羽とともに献上されたとしている[3]

この時の頬垂の報告によると、

「百済、新羅を伐ちて還(かへ)る。時に、馬(うま)(おの)づからに寺の金堂に行道(めぐ)る。昼夜(ひるよる)(や)むことなし。唯(ただ)し、草(くさ)(は)む時にのみ止(や)む」 (百済は新羅を討って帰ってきました。そのとき馬はひとりでに、寺の金堂の周りをめぐり歩き、昼夜止むことがありませんでした。ただ草を食べる時にだけは休みました)訳:宇治谷孟

とあり、『書紀』編纂者は翌年の出雲国雀魚(すずみお)の大量死の記事と合わせて、庚申の年の百済の滅亡の予兆としている[4]

同じ年、大和政権は新羅に使いを派遣し、沙門智達らを新羅の使いとともに大唐に送ろうと提案したが、新羅側に拒絶され、智達らはやむなく帰国している[2]

百済が新羅・唐の連合軍によって滅ぼされたのは、この3年後の斉明天皇6年7月(唐の顕慶5年、660年)のことである[5][6]。その知らせは、9月に百済からの使者によって大和政権にもたらされ[7]、こののち、倭国は百済救援戦へと突入し、白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗北する。

その後、『書紀』巻第二十七によると、天智天皇9年9月(671年)に頬垂は新羅に派遣されている。天皇は前年に河内鯨遣唐使として唐に派遣しており、唐の新羅駐屯軍側からは郭務悰らに率いられた2千人が日本に派遣されている[8]。同年9月には新羅も日本に調を進上している[9]

阿曇連一族は、天武天皇13年(684年)の八色の姓制定により、同年12月に第3位の宿禰を授与されている[10]

脚注

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  1. ^ 『古事記」上巻、伊邪那岐命と伊邪那美命段
  2. ^ a b 『日本書紀』斉明天皇3年是歳条
  3. ^ 『日本書紀』推古天皇7年9月1日条
  4. ^ 『日本書紀』斉明天皇4年是歳条
  5. ^ 『日本書紀』斉明天皇6年7月16日条、『日本世紀』
  6. ^ 新唐書』第二百二十、東夷伝百済条
  7. ^ 『日本書紀』斉明天皇6年9月5日条
  8. ^ 『日本書紀』天智天皇8年是歳条
  9. ^ 『日本書紀』天智天皇8年9月11日条
  10. ^ 『日本書紀』天武天皇13年12月2日条

参考文献

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関連項目

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