関川神社
関川神社 | |
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所在地 | 愛知県豊川市赤坂町関川111 |
位置 | 北緯34度51分15秒 東経137度18分36秒 / 北緯34.85417度 東経137.31000度座標: 北緯34度51分15秒 東経137度18分36秒 / 北緯34.85417度 東経137.31000度 |
主祭神 | 市杵島媛命 |
創建 | 1001年 |
例祭 | 1月15日・16日 |
地図 |
関川神社(せきがわじんじゃ)は、愛知県豊川市赤坂町関川に建つ神社である。祭神は市杵島媛命。
概要
[編集]長保3年(1001年)5月、赤坂の長者・宮道弥田次郎長富が三河国司の大江定基[1]の命を受け、関川地内に立つ楠の脇に堂宇を建立したのが起源とされる。当初は弁財天と称していたが、明治時代初期に神仏分離の影響を受けて関川神社と改称した。昭和28年(1953年)6月5日、宗教法人として登録を受けた[2]。氏子はおらず、神社の運営は関川区域の住民によって行われている[3]。
祭礼は旧暦1月15日・16日であり、福引が行われていたが、現在は太陽暦の1月15日・16日に改められ、余興は行われていない[3]。
同じく赤坂町に位置する宮道天神社で例祭が行われる際には、渡御する神輿の休憩所として境内が使用されてきた[4]。
確認できる最古の棟札は文政12年(1829年)のものであり、「再建之辨天拝殿一宇」の文字が見える[3][5]。他には、明治20年(1887年)のものがある[6]。
境内には、大正7年(1918年)2月に建てられた常夜灯がある[7]。
句碑
[編集]境内には、松尾芭蕉の俳句「夏農月 御油よ李いてゝ 赤坂や(夏の月 御油より出でて 赤坂や)」を刻んだ句碑がある。宝暦元年(1751年)冬に建てられた旧碑と、明治26年(1893年)12月に建てられた新碑があるが、旧碑は上部が折れてしまい、一部が判読不能になっている。句の部分も「油よ梨」「て而赤坂や」の部分しか残っていない[8][9]。
新碑は、芭蕉200年忌(明治25年(1892年))を機に花井又右衛門(花井汲古)が働き掛けて資金を集め、旧碑の前に建立したものである。三河産の花崗岩を用い、多田了証[10]が寄付した自然石の上に乗せられた。俳壇の家元である東京月之本素水八十一が揮毫し、萩本政次郎が彫った[11]。
文化財
[編集]- 関川神社のクスノキ
社殿の脇に立つ楠。幹周8.1m[12]。根元がえぐれているが、これは慶長14年(1609年)に発生した火災により焼失した部分であると伝えられる[13][14]。
昭和56年(1981年)3月1日、音羽町(当時)の文化財に指定された[15]。
交通
[編集]註
[編集]- ^ 大江定基は、宮道長富の娘・力寿を見初め、寵愛した。
- ^ 『音羽町誌』、522頁。
- ^ a b c 『音羽町誌』、535頁。
- ^ 『音羽町誌』、525 - 526頁。
- ^ 『音羽町史(史料編1 近世村方史料)』、814頁。
- ^ 『音羽町誌』、523頁。
- ^ 『音羽町誌』、590頁。
- ^ 『音羽町史(通史編)』、448頁。
- ^ 『音羽町史(史料編1 近世村方史料)』、763頁。
- ^ 正法寺(豊川市赤坂町)の住職で歌人。明治20年代に四季歌会を自宅で開催していた。『音羽町史(通史編)』、613頁。
- ^ 『音羽町誌』、470-471頁。
- ^ 『音羽町史(自然)』、257頁。
- ^ 『音羽町史(自然)』、255頁。
- ^ 関川神社説明。
- ^ 「豊川市内の指定・登録文化財一覧」(豊川市HP内)。
- ^ 「関川神社 せきかわじんじゃ」(豊川市観光協会HP内)。