関口友愛
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関口 友愛(せきぐち ともちか、嘉永5年(1852年12月17日[1]) - 大正14年(1925年)5月5日)は、明治時代の官吏、政治家。初名は初郎。
来歴
[編集]信濃国松本城下に松本藩士・関口友忠の長男に生まれる。 明治元年(1868年)に藩に出仕して従士となり、戊辰戦争に従軍し、中山道和田峠の警備にあたる。のち市川量造らが発刊した『信飛新聞』で自由民権論を展開するようになる[2]。同7年(1874年)保福寺村誠之学校の校長に任命され、同9年(1876年)筑摩県に15等で出仕し[1]、飯田・大町・上田・長野・木曽福島の各区裁判所を経て、大審院、函館控訴院に進んだが[3]、同15年(1882年)に依願免官により帰郷し、江橋厚、小里頼永らが設立した信陽立憲改進党に参加し[4]、また浅井洌らと「後凋社」を組織して文学や法律の研究向上を図った[4]。
同17年(1884年)長野県会議員に当選。同19年(1886年)から小県郡、更級郡兼埴科郡、東筑摩郡の各郡長を務めた。同年叙正八位[3]。同30年(1897年)台中弁務署長として赴任したが、廃官により帰郷し、松本町会議員として町政に参画した。同38年(1905年)塩尻吉江銀行の支配人となり、大正3年(1914年)に退職した。
脚注
[編集]出典
[編集]- 『東筑摩郡松本市・塩尻市誌 別篇 人名』 1982年。
- 『20世紀日本人名事典』日外アソシエーツ、2004年。
- 『長野県近現代史論集』 2020年。