長谷川猪三郎
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長谷川 猪三郎 | |
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生誕 |
1871年11月17日 日本 兵庫県 |
死没 | 不明 |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1892年 - 1923年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
長谷川 猪三郎(はせがわ いさぶろう、1871年11月17日(明治4年10月5日)[1] - 没年不明[2])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。位階勲等功級爵位は従三位勲三等功四級伯爵[3]。
経歴・人物
[編集]兵庫県平民の鈴木和[注釈 1]の長男として生まれ、1893年(明治26年)9月に子爵(のち元帥陸軍大将伯爵)長谷川好道の養嗣子となる[1]。1892年(明治25年)陸軍士官学校第3期卒業[2][4]。
歩兵第12旅団副官、軍事参議院副官、陸軍省人事局課員、近衛歩兵第1連隊大隊長を経て、1914年(大正3年)8月に佐倉連隊区司令官に任官し、さらに翌年の11月に陸軍歩兵大佐に昇進した[1][4]。
その後、1916年(大正5年)4月に歩兵第3連隊長、1919年(大正8年)7月に陸軍少将・歩兵第32旅団長を経て、1922年(大正11年)8月に待命となり、1923年(大正12年)3月に予備役、1930年(昭和5年)4月に後備役に編入された[2][4][5]。
養父の死去に伴い、1924年(大正13年)3月15日に伯爵を襲爵した[6]。1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[7]。
栄典
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[10]
著作
[編集]- 『歴史の話』世界思潮研究会、1924年。
親族
[編集]- 前妻:長谷川かつ(1878-1916)(長谷川好道の娘)[11]
- 後妻:長谷川トヨ(男爵外科医・佐藤達次郎の従妹)[3]
- 長男:長谷川東吉(1895-1961)[12]
- 長女:木梨芳子(男爵・木梨彜亮の妻)[3]
- 三女:門脇文子(実業家・衆議院議員門脇勝太郎の妻、離縁)[3][12]
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『人事興信録』第8版、『平成新修旧華族家系大成』下巻では鈴木氏知。
出典
[編集]- ^ a b c 『人事興信録』第5版、は92頁
- ^ a b c 『日本陸軍将官辞典』574頁。
- ^ a b c d 『人事興信録』第8版、ハ31頁
- ^ a b c 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』105頁。
- ^ 『陸軍後備役将校同相当官服役停年名簿』、昭和6年4月1日調。
- ^ 『官報』第3467号、大正13年3月17日
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」21頁。
- ^ 『官報』第3717号「叙任及辞令」1895年11月16日。
- ^ 『官報』第4164号「叙任及辞令」1940年11月21日。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 『大正過去帳 : 物故人名辞典』(東京美術、1973年)p.80
- ^ a b 『平成新修旧華族家系大成』下巻、361頁。
参考文献
[編集]- 人事興信所編『人事興信録』第5版、人事興信所、1918年。
- 人事興信所編『人事興信録』第8版、人事興信所、1928年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
日本の爵位 | ||
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先代 長谷川好道 |
伯爵 長谷川(好道)家2代 1924年 - 1947年 |
次代 華族制度廃止 |