長崎県立女子短期大学
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長崎県立女子短期大学 | |
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長崎県立女子短期大学跡の碑 (長崎県立鳴滝高等学校内) | |
大学設置 | 1950年 |
創立 | 1901年 |
廃止 | 2000年 |
学校種別 | 公立 |
設置者 | 長崎県 |
本部所在地 | 長崎県長崎市鳴滝1-4-1[注釈 1] |
学部 |
家政科 ◎食物専攻 ◎被服専攻 英文科 体育科 保育科 |
長崎県立女子短期大学(ながさきけんりつじょしたんきだいがく、英語: Nagasaki Prefectural Women's Junior College[1])は、長崎県長崎市鳴滝1-4-1[注釈 1]に本部を置いていた日本の公立大学である。1950年に設置され、2000年に廃止された。大学の略称は「県女短(けんじょたん)」、「県短(けんたん)」。
概要
[編集]大学全体
[編集]- 長崎県長崎市に所在した日本の公立短期大学で、設置主体は長崎県。
- 国内で最初に認可された短期大学149校[注 1]の1校として、1950年に3学科[注 2]体制[注 3]で開学した[4]。当初の入学総定員は240名。
- 1956年度より長崎県立佐世保商科短期大学との統合で長崎県立短期大学となる[注 4]が、旧来の佐世保商科短期大学にあった商科が大学への移行によって廃止されるとともに設置当初の学名に再改名される。最終的には、4学科[注 5]体制となる。
- 1998年度の入学生を最後に[注釈 2]、2000年に短期大学としての使命を終える[8]。
教育および研究
[編集]- 長崎県立女子短期大学には保育科が設けられており、附属幼稚園での教育実習も取り入れられていた。
学風および特色
[編集]- 長崎県立女子短期大学は旧来の高等女学校を起源としていることから、とりわけ家政科や英文科の専門教育には伝統がある。
- 5月8日が開学記念日となっていた。
- 地名や学生寮などに「鳴滝」といった名称が入っていることから、シーボルトに関連したものとなっていた。
- 1956年10月より学友会文芸誌として『四季』が年に1回発刊されていた。
沿革
[編集]- 高等女学校時代
- 1901年(明治34年)6月28日 - 文部省の認可を受け、西山郷(片淵)に「長崎高等女学校」(修業年限4年)が創立。
- 1902年(明治35年)
- 1912年(明治45年)4月1日 - 「長崎県立長崎高等女学校」に改称。
- 1916年(大正5年)3月31日 - 補習科が廃止される。
- 1923年(大正12年)4月1日 - 高等科(修業年限3年、定員130名、国語科・英語科の2学科)を設置。この高等科が後の短期大学の前身となる。
- 1929年(昭和4年)4月1日 - 専攻科(修業年限3年、定員240名、国文科・家政科(家事・裁縫)の2科)を設置[注 7]。
- 1931年(昭和6年)3月31日 - 高等科を廃止。
- 1932年(昭和7年)4月20日 - 家政科卒業生に無試験で中等学校裁縫科教員の資格が認定されるようになる。
- 1934年(昭和9年)10月10日 - 家政科卒業生に無試験で中等学校家庭科教員の資格が認定されるようになる。
- 1935年(昭和10年)5月23日 - 国文科卒業生に無試験で中等学校国語科教員の資格が認定されるようになる。
- 1936年(昭和11年)2月 - 専攻科の定員を150名とする。
- 1938年(昭和13年)3月31日 - 国文科を廃止。定員を130名とする。
- 1943年(昭和18年)
- 4月 - 保育所が併設される。
- 4月15日 - 専攻科2年生の三菱長崎製作所への勤労学徒動員が開始。
- 10月2日 - 専攻科3年生の三菱長崎製作所への勤労学徒動員が開始。
- 1945年(昭和20年)
- 1月 - 専攻科1年生の三菱長崎製作所への勤労学徒動員が開始。
- 8月9日 - 長崎市への原子爆弾投下により、教員4名と専攻科生徒9名が犠牲となる。
- 8月15日 - 終戦。
- 10月15日 - 授業を再開。
- 1946年(昭和21年)5月 - 併設の保育所を「たちばな保育所」と命名。
- 女子専門学校時代
- 1947年(昭和22年)
- 1948年(昭和23年)
- 1949年(昭和24年)
- 4月1日 - 女子専門学校第2代校長に中原賢治が就任。
- 9月 - 校舎を鳴滝の長崎県立長崎西高等学校[注 11]に移転し、当分の間同居の形をとる。
- 短期大学
- 1949年(昭和24年)10月 - 文部省[注釈 3]に短期大学[注 12]の設置認可に関する申請を以下の通り行う[注 13]。なお、学科・専攻は以下の通りとなっている[12]。
- 1950年(昭和25年)
- 1951年(昭和26年)
- 1952年(昭和27年)
- 1954年 学生数[17][注 16]/定員[19]
- 家政科 女174/160、英文科 女86/80、体育科 女63/60
- 1956年(昭和31年)10月 - 学友会文芸誌「四季」を創刊。
- 1957年(昭和32年)
- 2月6日 - 学歌を制定。
- 4月1日 - 長崎県立佐世保商科短期大学を統合し始め、長崎県立短期大学[注 17]となり、以下の学科体制、入学定員に変更[20]。
- 家政科 - 被服専攻 40・食物専攻 40・体育科 30→35 ・ 英文科 40・商科第一部 80・商科第二部 80
- 1958年(昭和33年)5月1日 学生数[21]/定員[22]
- 1960年(昭和35年)9月30日 - 構外グラウンドに学生寮が完成。
- 1961年(昭和36年)4月20日 - 同窓会誌第一号を発刊。
- 1962年(昭和37年)
- 1963年(昭和38年)4月15日 - 長崎県立保育専門学園が設置される。
- 1965年(昭和40年)4月1日 - 長崎県立保育専門学園が長崎県立保育短期大学校に改称。
- 1966年(昭和41年)
- 1967年(昭和42年)
- 1968年(昭和43年)
- 1969年(昭和44年)4月1日 - 共学の商科第二部も廃止され、佐世保校が四年制大学へ転換[注 28]することに伴い、分離し「長崎県立女子短期大学」(再)に戻る[26]。
- 家政科 - 被服専攻 40・食物専攻 40 ・ 体育科 35 ・ 英文科 20
- 1970年(昭和45年)9月 - 新本館が完成。
- 1972年(昭和47年)11月 - 学生クラブ会館が完成。
- 1977年(昭和52年)12月21日 - 保育科の設置が認可される[27]。
- 1978年(昭和53年)
- 1979年(昭和54年)3月31日 - 最後の卒業生を送り出し、長崎県立保育短期大学校が廃止される。
- 1981年(昭和56年)10月 - 公開講座を開始。
- 1982年(昭和57年)7月23日 - 長崎大水害により、大きな被害を受ける。
- 1983年(昭和58年)1月30日 - 新学生寮が完成。
- 1991年(平成3年)12月 - 4年制大学学部学科構想を長崎県に提出。
- 1992年(平成4年)
- 3月 - 卒業生に準学士の称号が与えられるようになる。
- 4月 - 週休2日制を開始。
- 1998年(平成10年)
- 1999年(平成11年)
- 2000年(平成12年)
- 3月16日 - 最後の卒業式を挙行。
- 3月23日 - 閉学記念式典を挙行。
- 3月31日 - 閉学。50年の歴史に幕を閉じる[8]。
- 閉学後
- 2000年(平成12年)4月1日 - 鳴滝の校地に長崎県立鳴滝高等学校(定時制課程・通信制課程)が開校。
基礎データ
[編集]所在地
[編集]- 長崎県長崎市鳴滝1-4-1[注釈 1]
象徴
[編集]学章
[編集]- 昭和25年、長崎県立女子専門学校から長崎県立女子短期大学に昇格する際に制定された。長崎港の象徴である鶴を3羽と女子短大の「女」の文字を図案化したものを組み合わせ、中央に「大學」の文字(縦書き)を置いている[32]。
大学歌
[編集]- 1957年(昭和32年)2月6日に制定された。作詞は福田清人(児童文学作家、長崎県出身)、作曲は寺崎良平(長崎県立女子短期大学教授)による。歌詞は2番まである。
- またこれとは別に以下の歌があった。
- 体育科「野菊の園」(作詞:上森重治/作曲:寺崎良平)
- 保育科「長崎の空」(作詞:第7期生/作曲:池田松洋)
- 「選手激励の歌」(作詞:上森重治/作曲:寺崎良平)
- 「女子大音頭」(作詞:池田祐重/作曲:寺崎良平)
- 「鳴滝寮寮歌」(作詞:中原賢次/作曲:寺崎良平)
- 第一学生歌「みどりの屋根」
教育および研究
[編集]組織
[編集]- 最終的な学科数は4。
一時的にあった学科
[編集]- 商科
- 第一部 入学定員80名
- 第二部 入学定員80名
取得資格
[編集]附属機関
[編集]研究
[編集]学生生活
[編集]- 長崎県立女子短期大学で活動していたクラブ活動
学園祭
[編集]スポーツ
[編集]- 左記の資料を参照[41]。
大学関係者
[編集]- 鳥巣通明 - 学長、1975年(昭和50年)4月2日〜)
- 出身者
同窓会
[編集]施設
[編集]附属機関
[編集]- 長崎県立保育短期大学校
- 1963年(昭和38年)4月15日 - 「長崎県立保育専門学園」が設置される。当分の間長崎県立女子短期大学の校舎に同居の形をとる。
- 1964年(昭和39年)3月31日 - 長崎県立女子短期大学のそばに保育専門学園単独の校舎が完成。
- 1965年(昭和40年)4月1日 - 「長崎県立保育短期大学校」に改称。
- 1967年(昭和42年)4月1日 - 「長崎県立短期大学附属保育短期大学校」となる。
- 1978年(昭和53年)4月1日 - 長崎県立女子短期大学に保育科が設置される。(保育短期大学校としての生徒募集を停止)
- 1979年(昭和54年)3月31日 - 最後の卒業生を送り出し、廃止される。
- 長崎県立女子短期大学附属幼稚園
- 1943年(昭和18年)4月 - 「長崎県立長崎高等女学校付設保育所」として開園。
- 1945年(昭和20年)8月 - 長崎市への原子爆弾投下により、休園となる。
- 1946年(昭和21年)5月 - 「たちばな保育所」として再開される。
- 1949年(昭和24年)4月 - 学制改革により、再び休園となる。
- 1950年(昭和25年)3月 - 「長崎県立女子短期大学附属幼稚園」に改組され開園。鳴滝の長崎県立長崎西高等学校仮校舎の一部を暫定的に利用。
- 1951年(昭和26年) - 運動場にあった理科実験室を改修の上園舎が完成し移転。
- 1952年(昭和27年) - 家政科食物専攻の集団給食実習場として利用される。
- 1963年(昭和38年) - 長崎県立保育専門学園の実習施設となる。
- 1966年(昭和41年) - ツツジ園南側の敷地に鉄筋コンクリート造2階建ての園舎が完成。
- 1978年(昭和53年) - 長崎県立女子短期大学保育科の実習施設となる。
- 1982年(昭和57年) - 1年保育(5歳児)の園児募集を停止。
- 1985年(昭和60年)7月 - 隣接の長崎原爆病院看護婦寮が移転したため、その跡地に鉄筋コンクリート造2階(一部3階(図書室))建ての新園舎が完成。
- 1997年(平成9年) - 3年保育(3歳児)の園児募集を停止。
- 1998年(平成10年) - 2年保育(4歳児)の園児募集を停止。
- 1999年(平成11年)3月31日 - 長崎県立女子短期大学の長与移転(翌年閉校)に伴い、閉園。
社会との係り
[編集]- 1988年(昭和63年)10月4日~11月8日において公開講座が行われた[42]。
系列校
[編集]関連項目
[編集]注釈
[編集]注釈グループ
[編集]- ^ a b 鳴滝の長崎県立女子短期大学跡には現在長崎県立鳴滝高等学校が建っている。
- ^ a b 平成11年度より学生募集停止[6][7][注 6]。
- ^ a b 現在の文部科学省。
- ^ a b なお右記資料には、一部、第二部の詳細な記載がなくそれらを併せて「入学定員80」と表記されている[13]
- ^ 昭和42年度より学生募集停止[23][注 21]。
- ^ 開学当時は、英文と商業英語の2専攻を設置していたが、昭和26年2月1日に英語英文科として統合。
- ^ a b 最終募集となった1950年における体制[34]。
補足
[編集]- ^ うち公立短期大学17校
- ^ 2学科4専攻含む。
- ^ 出典[2][3]
- ^ 通称「長崎女子部」と呼ばれていた。ただし、英文科には1967年度に男性6人が在籍していた記載が右記資料にある[5]。
- ^ うち1学科2専攻
- ^ 県立長崎シーボルト大学へ転換のため。
- ^ 国文科専攻科に関しては、入学資格が5年制の高等女学校卒業者と規定されていたため、4年制の長崎高等女学校を卒業しただけではそのまま進学することはできなかった。そこで国文科に関しては予科(修業年限1年)を同時に設置することで、国文科専攻科への進学を可能にした。
- ^ 六・三・三制の実施
- ^ 長崎県立長崎高等学校、長崎県立瓊浦高等学校、長崎市立女子高等学校の3校。
- ^ 旧・長崎県立長崎高等女学校の校舎(西山校舎)は長崎東高等学校にあてられ、当分の間、長崎東高等学校と長崎県立女子専門学校は同居の形をとる。
- ^ もともと旧制・長崎県立長崎中学校の校地であったが、学制改革で1948年(昭和23年)4月に新制高等学校「長崎県立長崎高等学校」となった半年後の11月、市内の公立高等学校の統合・再編により、竹の久保町に新校舎が完成するまでの間、長崎県立長崎西高等学校の仮校舎として使用されていた。
- ^ 短期大学名 長崎県立女子短期大学
- ^ 出典[9][10][11]。
- ^ 出典[15][16]
- ^ 昭和28年度までは音楽の免許状も授与されていた。
- ^ なお右記資料には1年生162人、2年生157人と表記あり[18]。
- ^ 通称「長崎女子部」
- ^ うち男26
- ^ うち女151
- ^ 男157、女412と記載あり[21]。
- ^ 長崎県立大学へ転換のため。
- ^ うち男16
- ^ うち女71
- ^ うち女59
- ^ うち男6
- ^ うち女42
- ^ うち女45
- ^ 長崎県立国際経済大学に昇格。
- ^ 出典[28]。
- ^ 県立長崎シーボルト大学キャンパス
- ^ 但し、右記資料には旧来と同じ所在地が記載されている。
- ^ 最終募集となった1998年における体制[33]。
- ^ 当初は高等学校教諭免許状も設けられていた。教科目は家政科で(家庭)、英文科で(英語)、体育科で(保健体育)となっていた[35]
出典
[編集]- ^ 長崎県立女子短期大学'1997, p. 表表紙.
- ^ 国際文化都市長崎年鑑より。
- ^ 大学志願者のために : その本質と内容についてより。
- ^ 官報 1950年09月15日より。
- ^ a b 文部省'67, p. 27.
- ^ 文教協会'1999.
- ^ 大学資料 (142)より。
- ^ a b 文教協会'2000.
- ^ 文部省a, p. 36.
- ^ 文部省b, p. 2.
- ^ 日本教育年鑑より。
- ^ 全国学校名鑑 昭和25年版より。
- ^ a b c 旺文社1950-01, p. 33.
- ^ 文部省c, p. 2.
- ^ 短期大学一覧 昭和25年5月1日現在より。
- ^ 文部省d, p. 4.
- ^ 文部省'54, p. 1372.
- ^ 全国大学大観 昭和30年版より。
- ^ 短期大学一覧 昭和29年度 (短期大学資料)より。
- ^ 短期大学一覧 昭和32年度 (短期大学資料 ; 第18号)より。
- ^ a b 文部省'58, p. 17.
- ^ 短期大学一覧 昭和33年度 (短期大学資料 ; 第19号)より。
- ^ 。 短期大学一覧 昭和42年度 (短期大学資料)より。
- ^ 文部省'66, p. 27.
- ^ 短期大学一覧 昭和42年度 (短期大学資料)より。
- ^ a b 短期大学一覧 昭和44年度 (短期大学資料)より。
- ^ 全国短期大学一覧 昭和55年度より。
- ^ 全国公立短期大学協会三十年誌より。
- ^ 全国学校総覧 昭和54年版より。
- ^ 文部省'98, p. 54.
- ^ 文部省'99, p. 58.
- ^ a b c 長崎県立女子短期大学'1997, p. 19.
- ^ 文教協会'1998.
- ^ 短期大学一覧 昭和26年度 (短期大学資料 ; 第3号)より。
- ^ 文部省e, p. 35.
- ^ 長崎県立女子短期大学'1997.
- ^ 長崎県立女子短期大学研究紀要より。
- ^ 長崎県立短期大学長崎女子部研究紀要より。
- ^ 長崎県立短期大学長崎女子部・長崎県立保育短期大学校研究紀要【全号まとめ】より。
- ^ a b 長崎県立女子短期大学'1997, p. 16.
- ^ 九州地区大学体育大会 第28回/1978 陸上競技より。
- ^ 大学資料 (107/108)より。
参考文献
[編集]1949年短大設置申請分
[編集]- 文部省『申請大学、短期大学等一覧 短期大学審査状況』(PDF)文部省 。
- 文部省『短期大学審査状況』(PDF)文部省 。
- 旺文社『蛍雪時代 19(10);昭和25年1月號』旺文社 。
- 文部省『短期大学審査状況-認可分-』(PDF)文部省 。
- 文部省管理局管理課『昭和25年5月1日現在 短期大学等一覧』(PDF)文部省 。
全国学校総覧
[編集]- 文部省調査局統計課『全国学校総覧 昭和30年版』青葉書房 。
- 文部省『全国学校総覧 昭和34年版』東京教育研究所 。
- 文部省調査局統計課『全国学校総覧 昭和42年版』東京教育研究所 。
- 文部省調査局統計課『全国学校総覧 昭和43年版』東京教育研究所 。
- 文部省調査局統計課『全国学校総覧 昭和43年版』東京教育研究所 。
- 文部省『全国学校総覧 1999年版』原書房 。
- 文部省『全国学校総覧 2000年版』原書房 。
全国短期大学高等専門学校一覧
[編集]- 文部省『全国短期大学・高等専門学校一覧 平成10年度』文教協会 。
- 短大・高専教育研究会監修『全国短期大学・高等専門学校一覧 平成11年度』文教協会 。
- 短大・高専教育研究会監修『全国短期大学・高等専門学校一覧 平成12年度』文教協会 。
短期大学入学案内冊子
[編集]- 長崎県立女子短期大学『長崎県立女子短期大学 大学案内 1998年度』出版社 。
教員養成機関
[編集]- 文部省大学学術局『教員養成課程認定大学短期大学一覧 : 附指定教員養成機関一覧. (昭和30年) / (編)』(PDF)文部省 。