長井時秀
時代 | 鎌倉時代 |
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生誕 | 不詳(1242年ごろか?[注釈 1]) |
死没 | 不詳 |
改名 | 時秀、西規(法名) |
別名 | 長井太郎 |
官位 | 備前守、宮内権大輔、従五位 |
幕府 | 鎌倉幕府、引付衆、評定衆 |
氏族 | 大江氏姓長井氏 |
父母 |
父:長井泰秀 母:佐々木信綱娘 |
兄弟 | 時秀、源雅光妻、那波政茂妻[2] |
妻 | 安達義景娘[3] |
子 | 宗秀、貞広、女、斯波宗氏妻、女 |
特記 事項 | 長井氏嫡流、大江氏惣領、斯波高経外祖父 |
長井 時秀(ながい ときひで、生没年不詳)は、鎌倉時代中期の人物、鎌倉幕府の御家人[4][5]。長井泰秀の子[4][5]。母は佐々木信綱の娘[5]。妻は安達義景の娘。大江時秀とも呼ばれる[5]。法名は西規[4]。長井氏は大江広元の次男・時広を始祖とする鎌倉幕府の有力御家人であり[6]、北条氏得宗家の烏帽子親関係による一字付与による統制下にあったとみられ[7]、足利氏でいう足利家時[8]のように、「時」の字は北条氏得宗家当主よりその通字を受けたものと考えられる[注釈 2]。
生涯
[編集]通称は太郎[5][10]で、『吾妻鏡』における初見は、宝治元年(1247年)11月15日条[11][12]に、この日に開催された鶴岡八幡宮放生会の参列者の中で後陣の随兵の一人として挙げられている「長井太郎」である[13]。この段階で諱の「時秀」の掲載はないものの、通称(仮名)は元服時に名付けられるものであり[注釈 3]、これ以前に元服を済ませたとみなすのが妥当である[15]。
1254年(建長6年)父の死の翌年には引付衆五番に任ぜられて幕政に参画し[16][4][5]、1257年(正嘉元年)[17][注釈 4]を始め、1264年(文永元年)[18]、1282年(弘安5年)にも東使として京に赴いたことが解る[19]。その間、正元元年(1259年)閏10月には宮内権大輔[20]に任ぜられ、五位に叙せられた[注釈 5]ほか、1265年(文永2年)6月11日条では評定衆に新任とあり[21][4]、1271年(文永8年)には備前守となる[5]。また、執権・北条氏の下で評定衆を務める身でありながら、歴代将軍(藤原頼経・頼嗣・宗尊親王)の側近としても重用されていたようである[5]。
『吾妻鏡』では文永3年(1266年)3月の評定衆結番の記事[22]を最後に「長井時秀」の名は見られなくなる[4]が、前述のようにその後も時宗の信頼を受けた。
建治元年(1275年)京都若宮八幡宮社の再建に当たり、御家人に費用の捻出が求められるが、鎌倉在住の長井氏は北条氏一門(500貫~200貫)、足利氏(200貫)に次いで多い、180貫の費用を提供した[23]。建治3年(1277年)12月、時宗の嫡子・貞時の元服に際し、時秀は湯摩杯を持参する役を務めて[24]その後見となった。
弘安7年(1284年)の執権・北条時宗の死去を機に出家し、西規と号した[25]後は活動が見られなくなる[26]が、没年は不詳である。子に宗秀があり[4]、『吾妻鏡』の編纂者のひとりではないかと推測されている。
資福寺
[編集]父から引き継いだ出羽長井荘(現在の山形県高畠町)に資福寺を建立したとされ、学問の中心として、関東十刹の一つに挙げられることもある有力寺院であった。出羽長井氏の衰亡後は伊達氏により保護を受け、虎哉宗乙の元で幼い伊達政宗が学んだ。その移封に伴い仙台へ移った。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 父・泰秀、子・宗秀がともに18歳で叙爵していることから、五位相当の宮内権大輔に任官した正元元年(1259年)当時18歳であったと推定され[1]、逆算すると1242年生まれである。
- ^ 紺戸論文内の系図[9]では、北条泰時から一字を受けた泰秀と、北条時宗より一字を受けた宗秀との間に位置する時秀は、経時(在任:1242年-1246年)または時頼(在任:1246年-1256年)と烏帽子親子関係を結んだとしているが、生誕年は1242年とされており(別途脚注参照)、これに基づけば後者である可能性が高い。
- ^ 元服にあたっては、それまでの童名(幼名)が廃されて、烏帽子親から仮名(通称名)と実名(諱)が与えられるが、その際にその実名の一字(偏諱)の付与がなされることが多い[14]。
- ^ 山門(延暦寺)と寺門(園城寺)の紛争が起きたのに伴い、大曾禰長泰とともにその調停使として上洛している[4][10]。
- ^ 『関東評定衆伝』弘安5年条[1]
出典
[編集]- ^ a b 前田治幸 著「鎌倉幕府家格秩序における足利氏」、阿部猛 編『中世政治史の研究』日本史史料研究会、2010年。別表1註釈(8)。/所収:田中 2013, p. 226
- ^ 従五位上、刑部少輔、引付衆「最上院本大江系図」『寒河江市史 大江氏ならびに関連史料』p.35
- ^ 『尊卑分脉』安達義景の女子の一人に「大江宗秀母」(=長井宗秀の母)とある。
- ^ a b c d e f g h 安田 1990, p. 432, 下山忍「長井時秀」
- ^ a b c d e f g h 佐々木文昭「長井時秀」『朝日日本歴史人物事典』 。
- ^ 「長井氏」『世界大百科事典』(第2) 。
- ^ 山野 2012, p. 163。「北条氏#北条氏による一字付与について」も参照のこと。
- ^ 小谷俊彦「北条氏の専制政治と足利氏」『近代足利市史 第一巻』足利市、1977年。/所収:田中 2013, p. 131
- ^ 紺戸1979, p.15系図.
- ^ a b 「長井時秀」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』 。
- ^ 『大日本史料』5編23冊143頁
- ^ 寳治元年十一月大十五日甲子。天晴。鶴岡八幡宮放生會也。…… 後陣随兵 前大藏權少輔 城九郎 長井太郎 上野三郎 ……
- ^ 紺戸 1979, p. 16。『吾妻鏡』では1257年(正嘉元年)10月1日条から「長井太郎時秀」の記載が確認できる。
- ^ 山野 2012, p. 162.
- ^ 紺戸 1979, p. 16.
- ^ 「吾妻鏡」12月1日条、『史料総覧』5編904冊808頁
- ^ 「吾妻鏡」10月30日条、『史料総覧』5編905冊23頁。
- ^ 「外記日記」「天台座主記」、『史料総覧』5編905冊97頁
- ^ 「勘仲記」『史料総覧』5編905冊267頁。
- ^ 「関東評定伝」『史料総覧』5編905冊39頁
- ^ 「関東評定伝」『史料総覧』5編905冊106頁
- ^ 「関東評定伝」「続本朝通鑑」、『史料総覧』5編905冊119頁
- ^ 国立歴史民俗博物館所蔵「造六条八幡新宮用途支配事」、『寒河江市史 大江氏ならびに関係史料』p.390-397
- ^ 『建治三年記』12月2日条。
- ^ 『関東評定衆伝』弘安7年条。
- ^ 細川 2000, 巻末基礎表p.90-91.
参考文献
[編集]- 細川重男『鎌倉政権得宗専制論』吉川弘文館、2000年。ISBN 4-642-02786-6。
- 五味文彦『増補 吾妻鏡の方法―事実と神話にみる中世』吉川弘文館、2000年。
- 安田元久 編『鎌倉・室町人名事典』(コンパクト)新人物往来社、1990年。
- 紺戸淳「武家社会における加冠と一字付与の政治性について」『中央史学』2号、1979年。
- 山野龍太郎 著「鎌倉期武士社会における烏帽子親子関係」、山本隆志 編『日本中世政治文化論の射程』思文閣出版、2012年。ISBN 978-4-7842-1620-8。
- 田中大喜 編『下野足利氏』戎光祥出版〈シリーズ・中世関東武士の研究 第九巻〉、2013年。
- 寒河江市史編さん委員会 編『寒河江市史 大江氏ならびに関連史料』2001年。
- 東京大学史料編纂所データベース『史料総覧』