足立荘
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足立 荘(あだち そう、明治3年4月8日(1870年5月8日)[1] - 昭和22年(1947年)11月15日[2])は日本の実業家。日本徴兵保険社長(1936-1941)。教育者足立正の弟。
経歴
[編集]鳥取県上道村(現在の境港市上道町)に足立国五郎の次男として生まれる。父・国五郎は村の助役、収入役、村会議員等を歴任した人物。
旧制鳥取県尋常中学校(現在の鳥取県立鳥取西高等学校)を経て、明治25年(1892年)慶應義塾大学部文学科を卒業し時事新報社に入社。主として翻訳小説を同紙上に掲載する。後政治部に転じ、専ら外交、政治方面に活動し伊藤博文、陸奥宗光等の知遇を得た。日清戦争では大本営付き主任記者となり[3]、後政治部長に栄進、明治34年(1901年)編集長となる。日露戦争では従軍記者として北満を取材[4]。
明治43年(1910年)退社して実業界に入り、徴兵保険の必要性を自ら主唱して財界各方面の有力者を糾合、1911年に門野幾之進を社長に日本徴兵保険株式会社(現在の大和生命保険)が設立されると専務としてその経営にあたり、1936年には同社社長に就任した[5]。
内国貯金銀行、浜松銀行、常陽銀行、共同保全、日本楽器、日本不動産、日本商工、秩父電線製造所の各役員も務めた[6][3]。
家族 親族
[編集]- 兄・足立正 (教育者)
- 妻 いち(東京府、柳下重和長女)
- 長男 三郎
- 養子 茂(千葉県、稲葉徳次郎弟) ‐ 慶大法科卒、日本絹糸、鐘淵紡績を経て上海製造絹糸取締役。[6]
- 長女 きみ子(愛知県、横江芳男に嫁す)
- 三女 たき(東京府、柳下長太の養子)
- 四女 八重(養子茂の妻)
- 五女 すえ(大阪府、日本商工社長・馬場鶴蔵に嫁す)
- 七女・フミ(神奈川県、神崎享二に嫁す)
その他
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『境港市史』
- 『実業家人名辞典』(立体社、1990年)ア37頁