財満元直
表示
時代 | 江戸時代 |
---|---|
死没 | 寛文5年8月10日(1665年9月18日) |
別名 | 孫太郎、八郎右衛門、三郎兵衛 |
主君 | 毛利秀就→綱広 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 財満氏 |
父母 | 父:財満元久 母:二宮就辰の娘 |
兄弟 | 元直、元房、就久、就冬、女(井原元方室)、女(佐々部就茂室)、女(楢崎元重室)、女(口羽元良室)、女(懸谷隆貞室)、女(渡辺就久室) |
妻 |
先妻:門田元経の娘 後妻:口羽元良の娘 後妻:和智元通の娘 |
子 |
女(久長室(先妻))、女(久長室(後妻))、女(久長室(後妻))、女(小川玄逹室) 久長(実父益田就之) |
財満 元直(ざいま もとなお)は江戸時代初期の毛利氏家臣。萩藩大組である財満氏の当主・財満元久の嫡子。 通称は孫太郎、八郎右衛門、三郎兵衛[1]。
生涯
[編集]毛利氏の家臣である財満元久の長男として萩に生まれる。母は二宮就辰の娘であることから、毛利元就は外曾祖父にあたる[注釈 1]。
男子が生まれなかったため、長女と婚姻した益田就之の次男・才嶋を婿養子に迎えた。才嶋は財満新右衛門久長と改名する。しかしその長女が早世し、続いて久長と婚姻した次女も早世したため、元直は三女も久長に婚姻させて、財満氏の血筋を維持することに腐心した。三女の母は和智元通の娘。
寛永7年(1630年)7月に父・元久が亡くなると財満氏750石の家督を継ぎ、以降終身、御弓頭を務めた[2]。また組番頭にも抜擢されている。江戸において江戸番手を勤めていた寛文5年(1665年)8月10日、江戸において病没した[3]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『萩藩閥閲録』巻64「二宮太郎右衛門」の記述によると、二宮就辰は毛利元就の六男
出典
[編集]参考文献
[編集]- 石川敦彦 編『萩藩職役人名辞典』(改訂版)石川榮子、2023年11月 。
- 岡部忠夫 編『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。doi:10.11501/12212336 。
- 毛利氏 編『毛利家文庫』 23譜録《財満新三郎久張 大組》〈さ65〉、1740年 。