財満久長
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 寛永13年(1636年) |
死没 | 貞享5年4月8日(1688年5月7日) |
改名 | 益田才嶋(幼名)→財満久長 |
別名 | 新右衛門 |
主君 | 毛利綱広→吉就 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 財満氏 |
父母 |
父:益田就之 母:宍道元兼の娘[1] 養父:財満元直 |
兄弟 | 益田就武、 久長、勝田兼正、女(浦就勝室)、女(林善政室)、繁沢織部[1] |
妻 |
先妻:財満元直の長女 後妻:元直の二女 後妻:元直の三女 後妻:乃美就易の娘 |
子 | 久之、女(羽仁幸統室) |
財満 久長(ざいま ひさなが)は毛利氏家臣。萩藩大組である財満氏の当主・財満元直の嫡子。実父は益田就之。 幼名は才嶋、通称は新右衛門[2]。
生涯
[編集]萩藩寄組である父・益田就之と母・宍道元兼の娘[注釈 1]の二男として生まれる。
男子がいなかった財満元直の長女と婚姻し婿養子となった。しかしその長女が早世し、続いて二女を後妻に迎えたもののその二女も早世したため、さらに三女を後妻としている。三女の母は和智元通の娘。この三女もまた早世するが、久長との間に嫡子・久之を儲けた。
養父・元直が亡くなったため、寛文5年(1665年)11月に財満氏750石の家督を継いだ。 家督相続後は大組番頭 を務め、貞享5年(1688年)4月8日病没。嫡子・久之が家督を継いだ[2][3][4]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 石川敦彦 編『萩藩職役人名辞典』(改訂版)石川榮子、2023年11月 。
- 岡部忠夫 編『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。doi:10.11501/12212336 。
- 防長新聞社山口支社 編『近世防長諸家系図綜覧』(改訂版)防長新聞社、1966年 。
- 毛利氏 編『毛利家文庫』 23譜録《財満新三郎久張 大組》〈さ65〉、1740年 。