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財満久長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
財満久長
時代 江戸時代
生誕 寛永13年(1636年)
死没 貞享5年4月8日(1688年5月7日
改名 益田才嶋(幼名)→財満久長
別名 新右衛門
主君 毛利綱広吉就
長州藩
氏族 財満氏
父母 父:益田就之 母:宍道元兼の娘[1]
養父:財満元直
兄弟 益田就武久長勝田兼正、女(浦就勝室)、女(林善政室)、繁沢織部[1]
先妻:財満元直の長女
後妻:元直の二女
後妻:元直の三女
後妻:乃美就易の娘
久之、女(羽仁幸統室)
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財満 久長(ざいま ひさなが)は毛利氏家臣。萩藩大組である財満氏の当主・財満元直の嫡子。実父は益田就之幼名は才嶋、通称は新右衛門[2]

生涯

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萩藩寄組である父・益田就之と母・宍道元兼の娘[注釈 1]の二男として生まれる。

男子がいなかった財満元直の長女と婚姻し婿養子となった。しかしその長女が早世し、続いて二女を後妻に迎えたもののその二女も早世したため、さらに三女を後妻としている。三女の母は和智元通の娘。この三女もまた早世するが、久長との間に嫡子・久之を儲けた。

養父・元直が亡くなったため、寛文5年(1665年)11月に財満氏750石の家督を継いだ。 家督相続後は大組番頭 を務め、貞享5年(1688年)4月8日病没。嫡子・久之が家督を継いだ[2][3][4]

脚注

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注釈

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  1. ^ 元兼は出雲国鳶ヶ巣城主宍道政慶の子。宍道氏は尼子氏の流れをくむ尼子氏一門衆であり、十一ヶ国太守と呼ばれる尼子経久は財満久長の7代前の先祖にあたる。

出典

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参考文献

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