財満元久
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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死没 | 寛永7年7月11日(1630年8月19日) |
改名 | 菊千代(幼名)→ 財満元久 |
別名 | 三郎兵衛 |
墓所 | 山口県宇部市小野平原(財満苑) |
主君 | 毛利輝元→秀就 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 財満氏 |
父母 | 父:財満忠貞 養父:財満就久 |
妻 | 先妻:二宮就辰の娘、後妻:神田久継の娘 |
子 | 元直、元房、就久、就冬、女(井原元方室)、女(佐々部就茂室)、女(楢崎元重室)、女(口羽元良室)、女(懸谷隆貞室)、女(渡辺就久室) |
財満 元久(ざいま もとひさ)は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての毛利氏家臣。萩藩大組にして750石を給わる。財満氏の当主である財満就久の養子にして嫡子。実父は就久の弟の財満忠貞。 幼名は菊千代。通称は三郎兵衛[1]。
生涯
[編集]毛利氏の家臣であった財満忠久の次男・忠貞の長男として生まれる。財満忠久から家督を継いだ就久には子がなかったことから、元久は就久の養子となり、家督を継ぐ。 二宮就辰の娘を妻として迎え、嫡男・元直を儲ける。
朝鮮出兵においては、足軽大将として朝鮮に渡り戦陣に就いた[2]。
慶長5年(1600年)には、関ヶ原の戦いの前哨戦ともいわれる大津城の戦いに元久は出陣する。大津城攻めの西軍大将である毛利元康の着陣前に先駆けて、三浦四兵衛とともに京極高次が籠もる大津城に攻勢をかけた[3]。西軍は9月13日に城への総攻撃を開始し、9月15日には京極軍を降伏させた。 しかし9月15日同日、関ヶ原の戦いで西軍が敗北したことで、西軍総大将であった毛利輝元率いる毛利氏は防長二カ国に減封された。
萩入り後は現在の萩市堀内90あたりに居を構え、御鉄砲頭、惣御鉄砲頭、元和年間には母衣役を務めた[4]。また山口金山奉行としての任にも当たった[2]。 寛永年間の所領は、美祢郡大嶺村、熊毛郡小周防村、佐田村、750石に及んだ。 寛永7年(1630年)7月11日、萩において病没[2]。
脚注
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 石川敦彦 編『萩藩職役人名辞典』(改訂版)石川榮子、2023年11月 。
- 岡部忠夫 編『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。doi:10.11501/12212336 。
- 三坂圭治 編『戦国史料叢書 第2期 第9』人物往来社、1966年 。
- 毛利氏 編『毛利家文庫』 23譜録《財満新三郎久張 大組》〈さ65〉、1740年 。