財満忠久
表示
時代 | 戦国時代 |
---|---|
死没 | 永禄12年5月19日(1569年6月3日) |
改名 | 赤法師丸(幼名)→ 財満忠久 |
別名 | 新右衛門、越前守 |
墓所 | 山口県宇部市小野平原(財満苑) |
主君 | 毛利元就、隆元、輝元 |
氏族 | 財満氏 |
父母 | 父:財満隆久 母: |
妻 | 口羽通良の娘 |
子 | 就久、忠貞 |
財満 忠久(ざいま ただひさ)は、戦国時代の武将。毛利氏の家臣。財満氏の当主である財満隆久の嫡子。口羽通良の娘である妻との間に就久と忠貞を儲ける。越前守。幼名は赤法師丸。通称は新右衛門。
生涯
[編集]父・財満隆久は大内義隆の家臣として仕えていたが、天文20年9月に起きた陶晴賢による謀反により大内義隆が自刃すると、陶軍に対抗し安芸槌山城において籠城した。陶晴賢の命に応じた毛利氏に攻撃された槌山城は落城し、隆久は討死した。
赤法師丸(のちの忠久)は家人の津室与三右衛門によって救い出され、その後成長した赤法師丸は新右衛門忠久と名乗り、毛利元就に召しかかえられ、周防国厚東郡四ケ小野1,600石を与えられた。永禄9年(1566年)4月21日には毛利輝元より「越前守」の受領名を賜わった[1]。
永禄11年(1568年)1月、城主・立花鑑載が大友氏に叛旗を翻したことに乗じて、毛利元就は立花鑑載に援軍を送り込んだ。しかし同年4月、大友方は立花城を奪還すべく攻撃を開始、3ヶ月間の攻城戦の末、立花城は陥落し立花鑑載は自害した。
翌永禄12年(1569年)4月、吉川元春、小早川隆景率いる毛利軍は立花城を再び陥落させ奪還した。5月、大友軍は再奪還を目指し立花山城に迫り、多々良川付近で毛利、大友両軍の間で激戦が繰り広げられた(多々良浜の戦い)。 5月18日には大友方の戸次鑑連勢が小早川隆景勢を破り、毛利方は立花山城に撤退を余儀なくされる。この戦いの中、永禄12年5月19日、財満忠久は立花城において討死した(立花城の戦い)。
脚注
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 岡部忠夫 編『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。doi:10.11501/12212336 。
- 毛利氏 編『毛利家文庫』 23譜録《財満新三郎久張 大組》〈さ65〉、1740年 。