財満隆久
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時代 | 戦国時代 |
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死没 | 天文20年9月11日(1551年10月10日) |
改名 | 太郎丸(幼名)→ 財満隆久→ 財満入道宗因 |
別名 | 入道宗因(法名)、越前守 |
主君 | 大内義隆 |
氏族 | 財満氏 |
父母 | 父:財満興久 母: |
子 | 忠久 |
財満 隆久(ざいま たかひさ)は、戦国時代の武将。大内氏の家臣。財満氏の当主である財満興久の嫡子。子は財満忠久。幼名は太郎丸。越前守。法名は入道宗因。
生涯
[編集]大内義隆の家臣として仕え、"隆"の字を義隆から賜わる(偏諱)。
天文20年8月28日、陶晴賢が主君・大内義隆に対して謀反を起こす。義隆は山口より逃れるが長門国深川の大寧寺で自刃し、大内氏は事実上滅亡した(大寧寺の変)。
財満隆久は、陶軍に対抗するため槌山城において、城主・菅田宣真、尾和秀義、大林隆兼らと1,500名の軍勢で籠城する。
陶晴賢から残る大内義隆派の追討を命じられた毛利元就は、その子隆元、元春を総大将として4,000名の軍勢で槌山城攻略を開始した。天文20年9月11日、激しい攻防戦が繰り広げられ、城主・菅田宣真は陣頭に立って指揮していたが、財満隆久と宣真の子・菅田宣種が討死し、その日のうちに槌山城は落城した。
参考文献
[編集]- 岡部忠夫 編『萩藩諸家系譜』琵琶書房、1983年8月。doi:10.11501/12212336 。