豊竹若太夫
豊竹 若太夫(とよたけ わかたゆう)は、義太夫節の太夫。江戸時代初期、大坂で豊竹派の始祖となった。その流れを汲む、人形浄瑠璃文楽の大名跡(だいみょうせき)は現代まで続いている[1]。
初代
[編集]天和元年(1681年) - 明和元年9月13日(1764年10月8日)
1697年に初代竹本義太夫の門下で竹本采女、15歳のとき竹本座に出演。1703年に独立し、豊竹若太夫の名で竹本座に対抗して豊竹座を創設した。天性の美声で人気を得る。後に受領して豊竹越前少掾となる。通称は幾竹屋または河内屋勘右衛門。
墓は、大阪市の四天王寺と本経寺の二カ所があり、後者には「一音院真覚隆信日重居士」という戒名が刻まれている。
二代目
[編集]正徳2年(1712年) - 天明4年9月10日(1784年10月23日)
大坂の生まれで、初代若太夫(豊竹越前少掾)の孫。竹本播磨少掾の門下。竹本志摩太夫から竹本島太夫、1748年には竹本座から豊竹座に転座して二代目豊竹島太夫、1750年に二代目若太夫を襲名。後に再び島太夫となる。通称を「芋屋平右衛門」。
なお初代豊竹島太夫が一時、二代目若太夫を一時名乗ったが、別人である。
三代目
[編集](生没年不詳)
大坂の生まれ、二代目同様に初代若太夫(豊竹越前少掾)の孫。1770年頃に三代目若太夫を襲名。後に江戸で肥前座、外記座などに出演。通称を「森川屋庄蔵」。
四代目
[編集](生没年不詳)
1784年には既に四代目若太夫を襲名。1791年頃まで活躍。通称を「幾竹屋庄蔵」。
なお二代目豊竹巴太夫が一時、四代目若太夫を名乗っているが別人である。
五代目
[編集](生没年不詳)
二代目豊竹巴太夫の門下で豊竹富太夫が1833年に五代目若太夫を襲名。1850年頃ドサ回り中に狂死したという。通称「治郎兵衛」。
六代目
[編集]後の四代目豊竹巴太夫。
七代目
[編集](生没年不詳)
二代目豊竹巴太夫の門下で豊竹伊豆太夫、錦太夫を経て明治2年頃に七代目若太夫を襲名。1877年頃に没したという。
八代目
[編集](文政8年(1825年) - 明治25年(1892年)3月16日)
九代目
[編集]委細不詳。
十代目
[編集]明治21年(1888年)5月17日 - 昭和42年(1967年)4月18日
本名は林英雄。徳島県の生まれ、1901年に二代目豊竹呂太夫に入門し、豊竹英太夫を名乗る。1910年初舞台。1920年に七代目豊竹嶋太夫を襲名。1932年に三代目呂太夫を襲名。1947年に文楽座組合を結成。1949年に二代目桐竹紋十郎等と共に三和会を結成。1950年に十代目若太夫を襲名。1956年に病気で失明し、床本を用いず無本で語る。1962年に人間国宝認定。1966年に芸術選奨受賞。1967年、脳軟化症により78歳で死去。
墓所は大阪府寝屋川市の清風寺[2]、戒名は「浄明院殿豊若日林居士」。
十一代目
[編集]2024年4月、十代目の孫である六代目豊竹呂太夫が57年ぶりに襲名した[1]。
脚注
[編集]- ^ a b 【伝統文化】新「若太夫」 祖父の語り学び/57年ぶり 大名跡復活:「市若初陣の段」来月都内でも襲名披露『読売新聞』夕刊2024年4月30日7面
- ^ 神津武男(京都市立芸術大学日本伝統音楽研究センター客員研究員)「人形浄瑠璃文楽の近世後期上演記録データベース更新に係る追補的資料」