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西村清則

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

西村 清則(にしむら きよのり[1][2]1924年大正13年〉6月15日[1] - 2003年平成15年〉2月5日[3])は、日本政治家実業家、教育者。鳥取県議会議員(日本社会党[1]。米子友好貿易代表取締役[1][4]日本中国友好協会鳥取県西部支部長[1]

経歴

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鳥取県西伯郡夜見村上谷(現・米子市夜見町)に生まれる[5]。武則の長男[1][5]。米子中学校(現・米子東高校)を卒業、鳥取師範学校に入学[5]1945年、広島に野砲兵として入隊、6月に甲種幹部候補生として高知に行き、原爆の被災を免れる[5]

終戦後帰郷し、富益国民学校に勤務する[5]教員組合運動が盛んとなり、竹中栄、安田貞栄(のちの境港市長)らと共に運動に参加する[5]1947年に弓ヶ浜中学校に、1949年に美保中学校に、1954年に米子一中に転勤する[5]日本教職員組合の県・市の役員をつとめる[5]

1955年、鳥取県西部中学教組委員長、鳥取県西部労組協議会事務局長となる[1][2]1959年3月に中学教員を退職、同年4月に鳥取県議会議員に当選する[1][2]1966年、米子友好貿易会社を設立し、山陰の日中貿易の開発に努力する[5]1971年、鳥取県議選に落選したが、1975年、再選する[5]

2003年2月5日に死去、28日付で正六位を追贈された[3]

人物

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1958年4月の勤評闘争で、ハンストに至るまでの強い反対闘争を行う[5]

1968年3月11日と12日本会議で近藤松寿議員(自民党)が「社会党は県民の敵で…」、西村議員(社会党)は「自民党は法の建て前もよく知らないで…」とそれぞれ失言、議場は一時紛糾し、議会運営委員会で善処される[6]

日中貿易の先鞭をつけたものとして高く評価される[5]

趣味は映画、スポーツ、囲碁[1][2]。住所は米子市夜見町[1][2]

家族

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西村家

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『人事興信録 第25版 下』に69頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月9日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i 『人事興信録 第20版 下』に33頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月10日閲覧。
  3. ^ a b 「叙位叙勲(28日)」『朝日新聞』2003年3月1日、鳥取朝刊、28面。
  4. ^ 『東西貿易要覧 第3』107頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月10日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l 『弓浜半島と夜見村』199 - 200頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月9日閲覧。
  6. ^ 『鳥取県議会史 上巻』547頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2023年10月10日閲覧。

参考文献

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  • 人事興信所編『人事興信録 第20版 下』人事興信所、1959年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第25版 下』人事興信所、1969年。
  • 『東西貿易要覧 第3』東西貿易通信社、1970年。
  • 『鳥取県議会史 上巻』鳥取県議会、1975年。
  • 森納編『弓浜半島と夜見村』森納、1977年。