森納
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森 納(もり おさむ、昭和3年(1928年)9月1日 - 平成24年(2012年)[1])は、日本の医師、郷土史研究家。森医院理事長[2]。医学博士[3]。
経歴
[編集]鳥取県西伯郡夜見村(現米子市夜見町)の生まれ[4]。昭和26年(1951年)米子医学専門学校卒[3]。昭和27年(1952年)鳥取大学医学部第二内科研究生、西伯病院勤務[3]。
昭和36年(1961年)島根県大田市祖式診療所長[3]。昭和41年(1966年)鳥取県岩美郡国府町糸谷で開業[3]。岩美郡医師会理事、東部医師会理事、鳥取県医師会理事を歴任した[3]。
人物像
[編集]学生時代
[編集]森が20歳になる前、米子医学専門学校3年の時に父が死去[4]。残されたものは先祖伝来の土地の一部、五反ほどの畑と借金だけであった[4]。五反ばかりの畑だけでは食べていくのに精一杯で、学費を用意できるはずもなく[4]、農作業や様々なアルバイトで生活する日が続いた[4]。
郷土史、医史学、民俗学研究
[編集]趣味は陶芸、医史学研究、民俗学研究[3]。森の話によれば、「私が郷土史関係に興味をもったのは私の郷里の夜見村に、その歴史を書いたものがないためで、医学史も同じく鳥取県の医学史が全くなされていないので、自分が少しでも資料のある間に書き残そうとしたからである」という[5]。
受賞・栄典
[編集]- 昭和54年(1979年) 鳥取県医師会長表彰[3]
- 昭和55年(1980年) 鳥取県出版文化賞[3]
- 昭和59年(1984年) 日本医師会最高優功賞[3]
- 平成14年(2002年) 勲五等双光旭日章[6]
著書
[編集]- 『弓浜半島と夜見村』(森納編1977.3)[7]
- 『弓浜における夜見村の歴史とその周辺』(森納編1975.5夜見村誌 その1)[7]
- 『弓浜における夜見村の風俗』(森納、森敏秋共編1975.5夜見村誌 その2)[7]
- 『因伯の医師たち』(森納著1979.8)[8]
- 『続 因伯の医師たち』(森納著1985.9)[8]
- 『国府町の医業史覚書』(森納著1982.4国府町文化財シリーズ 3)[8]
- 『因伯杏林碑誌集釈』(森納、安藤文雄著1983.2)[8]
- 『因伯の民間薬考』(森納著1984)[8]
- 『因伯くすり雑考』(森納著1984)[8]
- 『因伯医史雑話』(森納著1985.8)[8]
- 『砂との闘いの記録:旧会見郡夜見村下札他』(森納著1986.5)[8]
- 『因伯厠考:トイレとその今昔』(森納著1987.2)[8]
- 『塞神考:因伯のサイノカミと各地の道祖神』(森納著1990.8、1991.6補訂)[8]
- 『医人奇人:因伯の医師たち・夜話』(森納著1991.6)[8]
- 『日本盲人史考:視力障害者の歴史と伝承:金属と片眼神』(森納著米子今井書店1993.12)[8]
- 『因伯洋学史話』(森納著富士書店1993.12)[8]
- 『歯の民俗:民間信仰・俗信・くすり:歯の神様・仏様:あごなし地蔵』(森納著1998.5)[8]
- 『下田光造先生を偲んで:下田光造先生生誕地碑序幕式記念』(森納編著下田光造先生顕彰会1998.4)[8]
- 『鳥取県の疾病史覚書:明治・大正時代』(森納著2000.10)[8]
- 『ある田舎医者の足跡:回顧録』(森納著2008.3再版)[8]
- 『稲村三伯と娘さだ(海上随鷗と中定)』(森納著2008.5)[8]
参考文献
[編集]- 『鳥取県人名録』(企画・編集 鳥取県人名録刊行委員会 旬刊政経レポート、1987年 602頁)
- 『私の交遊抄(下)』(編集 - 朝日新聞鳥取支局 1989年 201-207頁)
脚注
[編集]- ^ 鳥取市公式ウェブサイト:市長交際費執行状況(平成24年度)
- ^ 『因伯洋学史話』著者略歴
- ^ a b c d e f g h i j 『鳥取県人名録』 602頁
- ^ a b c d e 『私の交遊抄(下)』 201頁
- ^ 『私の交遊抄(下)』206-207頁
- ^ 平成14年春の叙勲・褒章受章者
- ^ a b c 森納著書
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 森納著書