コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

藤原雄依

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原雄依
時代 奈良時代 - 平安時代初期
生誕 不詳
死没 不詳
別名 小依
官位 従四位上
主君 称徳天皇光仁天皇桓武天皇
氏族 藤原北家
父母 父:藤原永手、母:藤原良継の娘
兄弟 家依雄依曹司藤原巨勢麻呂室、
藤原内麻呂
大伴潔足の娘
賀祜麿
テンプレートを表示

藤原 雄依(ふじわら の おより)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。名は小依とも記される。藤原北家左大臣藤原永手の次男。位階従四位上

経歴

[編集]

天平神護3年(767年従五位下右衛士督内豎少輔に叙任されるが、同年8月備前権守左遷され、神護景雲2年(768年)備前守となる。神護景雲3年(769年称徳天皇が父の永手邸に行幸した際に、兄の家依と共に一階の加階を受け従五位上に叙せられる。

宝亀元年(770年光仁天皇即位に伴い正五位下に昇叙されると、宝亀5年(775年)正五位上、宝亀8年(777年従四位下と、天皇を擁立した功臣である永手の子として順調に昇進した。またこの間、内蔵頭・右衛士督・左京大夫侍従式部員外大輔宮内卿を歴任すると共に、備前守・播磨守讃岐守と地方官を兼ねた。

天応元年(781年桓武天皇の即位に伴い従四位上、延暦4年(785年正四位下大蔵卿に叙任される等、桓武朝に入っても順調に昇進する。しかし、同年9月に発生した藤原種継暗殺事件に連座して隠岐国への流罪となった。延暦24年(805年)同じく流罪となっていた五百枝王らと共に赦されて帰京し、延暦25年(806年)桓武天皇の崩御直前に、本位に復されて従四位上に叙せられた。六国史にそれ以後の消息についての記録はない。

官歴

[編集]

六国史』による。

系譜

[編集]

尊卑分脈』による。

参考文献

[編集]