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大伴潔足

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
大伴潔足
時代 奈良時代
生誕 霊亀2年(716年
死没 延暦11年10月2日792年10月22日
別名 浄足
官位 従四位上参議
主君 孝謙天皇淳仁天皇称徳天皇光仁天皇桓武天皇
氏族 大伴氏
父母 父:大伴兄麻呂
兄弟 駿河麻呂潔足、四綱
和武多麻呂藤原雄依
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大伴 潔足(おおとも の きよたり)は、奈良時代公卿参議大伴兄麻呂の子。官位従四位上参議

経歴

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聖武朝末から孝謙朝にかけて越前掾を務め、天平感宝元年(749年東大寺の寺田の選定に関わり、天平勝宝7歳(755年)東大寺が越前国桑原庄の土地を購入した際の証書に、関係者としてもその名が見える(いずれも当時の位階従六位上)。天平宝字2年(758年)各地方に問民苦使が派遣された際、山陰道に派遣される(この時の位階は正六位上)。

淳仁朝では式部少丞を経て、天平宝字8年(764年従五位下礼部少輔に叙任。

のち、天平神護3年(767年因幡介神護景雲4年(770年)因幡守と、称徳朝後半から光仁朝初頭にかけて因幡国の国司を務める。

宝亀2年(771年)11月に従五位上次いで正五位下と続けて昇叙され、翌宝亀3年(772年)4月に治部大輔に任ぜられ京官に復す。しかし、同年9月に地方の政情調査を目的に各地方に五位の官人が派遣された際に覆損使として山陽道に派遣[1]、宝亀7年(776年)正月に各地方の正税を調査するために検税使が派遣された際に東海道に派遣[2]、同年3月に播磨守に補任されるなど、その後も引き続き地方行政に携わっている。

光仁朝末の宝亀11年(780年)正五位上・左兵衛督に叙任されると、天応元年(781年桓武天皇即位直後に美濃守延暦4年(785年大蔵卿に任ぜられた一方で、桓武朝では兵部大輔近衛中将衛門督・兵部卿と武官を数多く歴任した。またこの間、延暦2年(783年従四位下、延暦6年(787年)従四位上と順調に昇進し、延暦9年(790年)には参議に任ぜられ公卿に列している。

延暦11年(792年)10月2日卒去享年77。

官歴

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注記のないものは『続日本紀』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『続日本紀』宝亀3年9月25日条
  2. ^ 『続日本紀』宝亀7年正月19日条
  3. ^ 『大日本古文書』巻4
  4. ^ 『大日本古文書(編年文書)』15巻130頁
  5. ^ 『公卿補任』
  6. ^ 鈴木真年『百家系図』巻59,大伴宿禰
  7. ^ 『尊卑分脈』

参考文献

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