藤原茂樹 (ゲームクリエイター)
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ふじわら しげき 藤原 茂樹 | |
---|---|
生誕 |
1959年12月2日(65歳) 日本 |
出身校 | 大阪芸術大学映像計画学科 |
職業 |
株式会社ゼロイチ 代表取締役社長 (企画家) |
代表作 |
ボンバーマン (PCE) ボンバーマン'93 スーパーボンバーマン3 サターンボンバーマン ボンバーマンワールド ボンバーマンストーリー テラクレスタ |
藤原 茂樹(ふじわら しげき、1959年12月2日 - )は、日本のゲームクリエイター、ゲームデザイナー、グラフィックデザイナー、ゲームプロデューサー。「ボンバー藤原」の名義を使用していた時期がある。
来歴
[編集]大阪芸術大学出身。元々は漫画家志望であり、藤子不二雄のアシスタントを務めていたことがある[1]。
ブロック崩しゲームを見て、ブラウン管に絵を描くことに興味を覚え、ドットデザイナーとして1979年 - 1980年頃に日本物産に入社[1]。『ムーンクレスタ』や『クレイジー・クライマー』などの制作に関わる。1985年にはゲームデザイナーとして『マグマックス』を企画、以降も『テラクレスタ』などヒット作品を企画した。
1989年にハドソンへ移籍。自身が好んでいたボンバーマンを「ハドソンのマリオ[2]」にすることを目標にPCエンジンの『ボンバーマン』を手がけ、対戦モード「バトルゲーム」を考案、5人同時対戦という新分野を開拓し、長くボンバーマンシリーズのシリーズプロデューサーとして携わる[3]。そこからの派生として、ビーダマンやベイブレードの企画協力、さらにボンバーマンのテレビアニメ化(『爆外伝』・『ジェッターズ』)に伴う企画原案に携わる。
その後はハ・ン・ドに移り、ハ・ン・ド執行役員を歴任しアニメ版『アイカツ!』のキャラクターデザイン協力・原案協力を担当する。その後0から1を生み出すコンテンツ企画会社として、株式会社ゼロイチを2017年3月7日に設立、代表取締役兼企画家を務める。
主な作品
[編集]ゲーム
[編集]日本物産
[編集]- ムーンクレスタ(1980年、日本物産、AC) - 入社時すでに企画は動いており、そこにドットデザインとして加わったが、合体など幾つかのアイデア出しも行った。
- クレイジー・クライマー(1980年、日本物産、AC) - 入社時すでに企画が動いており、そこにドットデザインとして加わる。
- チューブパニック(1984年、日本物産、AC) - ドットデザイン担当。
- ローラージャマー(1984年、日本物産、AC) - ドットデザイン担当。
- マグマックス(1985年、日本物産、AC) - ゲームデザイナーとしてのデビュー作。ポスターイラストも担当[1]。
- テラクレスタ(1985年、日本物産、AC)
- コスモポリス ギャリバン(1985年、日本物産、AC) - 企画は『テラクレスタ』より先に立てられたが、AMショーに『テラクレスタ』を出展するため別の担当者が制作を進め[1]、それを引き継いで完成させた。
- UFOロボ ダンガー(1986年、日本物産、AC)
- キッドのホレホレ大作戦(1987年、日本物産、AC)
- テラフォース(1987年、日本物産、AC)
ハドソン
[編集]- ドラえもん 迷宮大作戦 (1989年、ハドソン、PCE) - ゲームデザイン
- スーパースターソルジャー(1990年、ハドソン、PCE)
- 桃太郎活劇(1990年、ハドソン、PCE) - ディレクター
- ボンバーマン(1990年、ハドソン、PCE) - ディレクター
- うる星やつら STAY WITH YOU(1990年、ハドソン、PCE)
- 桃太郎伝説II(ハドソン、1990年、PCE)
- ボンバーマンII(1991年、ハドソン、FC) - プロデューサー
- ニュートピアII(1991年、ハドソン、PCE) - ディレクター、ゲームデザイナー
- 天外魔境II 卍MARU (1992年、ハドソン、PCE) - スペシャルサンクス
- ソルジャーブレイド(1992年、ハドソン、PCE)
- ボンバーマン'93(1992年、ハドソン、PCE) - ディレクター
- バトルロードランナー(1993年、ハドソン、PCE) - オープニングデザイン
- スーパーボンバーマン(1993年、ハドソン、SFC) - スペシャルサンクス
- 天外魔境 風雲カブキ伝(1993年、ハドソン、PCE) - 演出
- ボンバーマン'94(1993年、ハドソン、PCE) - スーパーバイザー
- 爆笑 吉本新喜劇 今日はこれぐらいにしといたる!(1994年、ハドソン、PCE) - ディレクター
- GB原人ランド ビバ!ちっくん王国 (1994年、ハドソン、GB)
- ボンバーマンGB (1994年、ハドソン、GB) - スペシャルサンクス
- 大貝獣物語 (1994年、ハドソン、SFC) - ディレクター、プロデューサー
- バトルヒート(1994年、ハドソン、PC-FX) - プロデューサー
- TEAM INNOCENT -The Point of No Return-(1994年、ハドソン、PC-FX) - スペシャルサンクス
- スーパーボンバーマン ぱにっくボンバーW (1995年、ハドソン、SFC) - 原画
- スーパーボンバーマン3(1995年、ハドソン、SFC) - ディレクター
- とびだせ!ぱにボン (1995年、ハドソン、VB) - スペシャルサンクス
- ボンバーマンGB2 (1995年、ハドソン、GB) - スペシャルサンクス
- 鬼神童子ZENKI FX 金剛焱闘(1995年、ハドソン、PC-FX) - スペシャルサンクス
- 鮫亀(1996年、ハドソン、SFC) - ディレクター
- ドレミファンタジー ~ミロンのドキドキ大冒険~(1996年、ハドソン、SFC) - プロデューサー
- スーパーボンバーマン4(1996年、ハドソン、SFC) - スペシャルサンクス
- サターンボンバーマン(1996年、ハドソン、SS) - ディレクター
- ボンバーマンGB3 (1996年、ハドソン、GB)
- ボンバーマンビーダマン(1996年、ハドソン、SFC)
- スーパーボンバーマン5(1997年、ハドソン、SFC) - スペシャルサンクス
- ネオ・ボンバーマン (1997年、ハドソン、MVS) - スーパーバイザー
- 桃太郎道中記 (1997年、ハドソン、SS) - スペシャルサンクス
- サターンボンバーマンファイト!! (1997年、ハドソン、SS) - 監修
- ボンバーマンワールド(1998年、ハドソン、PS) - ディレクター、ゲームデザイナー
- ボンバーマンウォーズ (1998年、ハドソン、PS・SS) - ディレクター
- ボンバーマンヒーロー ミリアン王女を救え!(1998年、ハドソン、N64) - スーパーバイザー
- ボンバーマン ファンタジーレース(1998年、ハドソン、PS) - スペシャルアドバイザー
- ボンバーマン (1998年、ハドソン、PS) - ディレクター
- ボンバーマンクエスト (1998年、ハドソン、GBC) - ディレクター
- 爆ボンバーマン2(1999年、ハドソン、N64) - スーパーバイザー
- ボンバーマンストーリー(2001年、ハドソン、GBA) - ディレクター
- ボンバーマンオンライン (2001年、ハドソン、DC) - スーパーバイザー
- ボンバーマンジェネレーション(2002年、ハドソン、GC) - スーパーバイザー
- ボンバーマンジェッターズ〜伝説のボンバーマン〜(2002年、ハドソン、GBA) - プロデューサー
- ボンバーマンジェッターズ(2002年、ハドソン、PS2・GC) - プロデューサー
- ハドソンセレクションVol.4 高橋名人の冒険島(2003年、ハドソン、PS2・GC) - スペシャルサンクス
- ボンバーマンランドシリーズ ボンバーマンカートDX(2004年、ハドソン、PS2) - プロモーション
- 天外魔境III NAMIDA(2005年、ハドソン、PS2) - プロモーション&セールス
ハ・ン・ド以降
[編集]玩具
[編集]アニメ
[編集]- ボンバーマン 勇気をありがとう 私が耳になる(1996年、OVA) - ボンバーマン監修
- Bビーダマン爆外伝(1998年、テレビ朝日系列) - 原案
- Bビーダマン爆外伝V(1999年、テレビ朝日系列) - 原案
- ボンバーマンジェッターズ(2002年、テレビ東京系列) - 企画原案
- アイカツ!(2012年、テレビ東京系列) - キャラクターデザイン協力。原案協力[4]。
- マジンボーン(2014年、テレビ東京系列) - 原案協力[4]。
人物
[編集]- 自らを「企画家」としているのは、漫画家を目指していたことが由来[5]。
- 特撮・アニメ好きである。日本物産時代の作品には、自機が合体変形や変身する要素や作品のタイトル名などにおいて、これらの影響やオマージュがみられるものがある(『UFOロボ ダンガー』『コスモポリス ギャリバン』など)。
- ハドソンの『ボンバーマン』(ファミコン)が好きで、ボンバーマンに影響を受け自分もボンバーマンのような面クリア型アクションを作りたいと思い『キッドのホレホレ大作戦』を開発した[4]。後に藤原はハドソンに移籍しボンバーマンシリーズのシリーズプロデューサーとなっている[3] 。藤原はボンバーマンを好きになった理由に「自分がゲームが下手で、ボンバーマンが『難易度曲線が逆向きなゲーム性』を有していること」を挙げている[4]。また、藤原はハドソン在籍中「ボンバー藤原」の名義を使用していた時期がある。
- ボンバーマンのヒットを受け、玩具メーカーのタカラからボンバーマンの版権を使用して玩具を作りたいと打診を受けた際に、「ただのキャラクター玩具では面白くないので、ビー玉やベーゴマといった、親の知っている遊びを今の技術で企画開発してはどうか」と提案し、ビーダマンやベイブレードが誕生するきっかけを作った[1]。
- 藤子不二雄のアシスタント時代、コロコロコミック編集部に出入りしていた縁で、当時ハドソンとの関係が深かった同誌において、ファミコン版『テラクレスタ』のフォーメーションコンテスト開催やコミカライズ作品の掲載を実現した[6]。
- 好きな漫画家に藤子不二雄[7]と鳥山明[4]の名を挙げている。
脚注
[編集]- ^ a b c d e “藤原茂樹プロフィール”. 株式会社ゼロイチ. 2017年8月1日閲覧。
- ^ 看板タイトル、看板キャラクターという意味。
- ^ a b ACCS主催の子供向け著作権セミナーにボンバーマンがゲストで登場! - ウェイバックマシン(2001年4月23日アーカイブ分)
- ^ a b c d e シューティングゲームサイドvol.11 - マイクロマガジン社 2015年2月7日発行
- ^ “ブログ始めました”. 株式会社ゼロイチ. 2017年8月1日閲覧。
- ^ シューティングゲームサイドvol.10 収録インタビュー - マイクロマガジン社 2014年9月26日発行
- ^ Beep 1985年10月号巻頭特集「ゲームデザイナーの頭脳を解剖する」,日本ソフトバンク,1985年10月1日発行