藤原良基
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時代 | 平安時代中期 - 後期 |
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生誕 | 治安3年(1023年) |
死没 | 承保2年閏4月19日(1075年6月5日) |
官位 | 従二位、参議 |
主君 |
後朱雀天皇→後冷泉天皇→後三条天皇→白河天皇 禎子内親王(皇太后宮職) 尊仁親王(春宮職) |
氏族 | 藤原北家中関白家 |
父母 | 父:藤原良頼、母:源経房の娘 |
兄弟 | 良基、忠俊、家基、良朝、親快、源基平室、藤原基貞室 |
妻 | 平範国の娘 |
子 | 隆宗 |
藤原 良基(ふじわら の よしもと)は、平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家、権中納言・藤原良頼の子。官位は従二位・参議。
経歴
[編集]後朱雀朝初頭の長元10年(1037年)従五位下に叙爵し、侍従に任官する。長暦4年(1040年)左兵衛佐次いで右近衛少将に任ぜられると、長久3年(1042年)正五位下、長久5年(1044年)従四位下と、後朱雀朝では少将を務める傍らで昇進を重ねる。
後冷泉朝に入ると昇進が遅滞し、少将在任が20年近くに亘った末、康平2年(1059年)になってようやく右近衛権中将に昇任される。また、康平7年(1064年)には春宮亮に任ぜられ、春宮・尊仁親王にも仕えている。
治暦4年(1068年)4月に尊仁親王が即位(後三条天皇)すると良基は蔵人頭に任ぜられ、7月には春宮亮の功労によって正四位下に叙せられ、12月には参議に補せられて公卿に列した。その後も、治暦5年(1069年)従三位次いで正三位、延久2年(1070年)従二位と後三条朝で急速な昇進を果たす傍ら、春宮権大夫として、春宮・貞仁親王にも仕えた。
延久3年(1071年)大宰大弐に任ぜられて九州へ下向する。延久4年(1073年)貞仁親王が即位(白河天皇)するが、良基に春宮権大夫としての特別な昇叙はなされず、逆に白河朝では藤原実季・源経信に権中納言昇進で先を越されている。
承保2年(1075年)閏4月19日に赴任先の大宰府で薨去。享年53。最終官位は参議従二位兼大宰大弐。
官歴
[編集]注記のないものは『公卿補任』による。
- 長元10年(1037年) 4月27日:従五位下(氏爵)。11月5日:阿波権守。閏12月13日:侍従
- 長暦4年(1040年) 正月25日:左兵衛佐。12月21日:右近衛少将[1]
- 長久2年(1041年) 正月5日:従五位上(少将労)。正月26日:兼美作権守。3月27日:兼伊予介[1]
- 長久3年(1042年) 正月5日:正五位下(脩子内親王御給)
- 長久4年(1043年) 正月9日:五位蔵人
- 長久5年(1044年) 正月7日:従四位下(少将労)[1]
- 寛徳2年(1045年) 4月24日:止伊予介[1]
- 永承2年(1047年) 正月28日:播磨介[1]
- 永承6年(1051年) 正月27日:止播磨介[1]
- 永承7年(1052年) 2月26日:備中権介[1]
- 天喜4年(1056年) 2月3日:止備中権介[1]。10月29日:皇太后宮亮(皇太后・禎子内親王)
- 康平2年(1059年) 2月13日:右近衛権中将[1]
- 康平5年(1062年) 正月30日:備中権介[1]
- 康平7年(1064年) 10月16日:春宮亮(春宮・尊仁親王)、止皇太后宮亮
- 治暦2年(1066年) 2月8日?:止備中権介[1]
- 治暦3年(1067年) 2月6日:兼周防権介
- 治暦4年(1068年) 4月19日:蔵人頭(受禅日)、止春宮亮。7月19日:正四位下(先坊労)[1]。11月9日:兼近江介。12月29日:参議、止兼官
- 治暦5年(1069年) 正月5日:従三位(悠紀国司)。4月28日:春宮権大夫(春宮・貞仁親王)。8月16日:正三位(院別当、行幸賞)
- 延久2年(1070年) 正月29日:周防権守。12月26日:従二位
- 延久3年(1071年) 4月9日:大宰大弐
- 延久4年(1072年) 12月8日:止権大夫(践祚)
- 承保2年(1075年) 閏4月19日:薨去(任所。参議従二位兼大宰大弐)
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。