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藤原良頼

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原良頼
時代 平安時代中期
生誕 長保4年(1002年
死没 永承3年6月4日1048年7月17日
官位 正三位権中納言
主君 後一条天皇後朱雀天皇後冷泉天皇
氏族 藤原北家中関白家
父母 父:藤原隆家、母:藤原宣斉[1]の娘
兄弟 良頼経輔、行昭、隆明、敦儀親王妃、藤原兼経室、季定、家房、良員、政則?
源経房の娘、藤原周子(藤原伊周の次女)
良基、忠俊、家基、良朝、親快、源基平室、藤原基貞
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藤原 良頼(ふじわら の よしより)は、平安時代中期の公卿藤原北家中関白家中納言藤原隆家の長男。官位正三位権中納言

経歴

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三条朝末の長和4年(1015年従五位下叙爵し、後一条朝初頭の長和6年(1017年)正月に侍従に任ぜられる。同年4月に右衛門佐に遷ると、寛仁2年(1018年右近衛少将、寛仁3年(1019年)従五位上、治安2年(1022年正五位下万寿元年(1024年従四位下、万寿3年(1026年)左近衛少将と武官を務めながら昇進する。しかしこの間、4歳下の異母弟・経輔が先に治安2年(1022年)従四位下に叙せられており、後一条朝では昇進面でその後塵を拝すことになる。

万寿4年(1027年春宮権亮に任ぜられ、後一条朝の後半は春宮敦良親王にも仕えるとともに、万寿5年(1028年)従四位上、長元2年(1029年)右近衛中将、長元4年(1031年正四位下、長元6年(1033年)左近衛中将と引き続き近衛次将を務めながら昇進を重ねた。

長元9年(1036年)4月に後朱雀天皇践祚と同時に蔵人頭となる。既に後一条朝末に蔵人頭を務めていた弟・経輔に2年遅れての補任であったが、同年12月に良頼は蔵人頭在任8ヶ月足らずで参議に任ぜられ公卿に列し、後任の蔵人頭に経輔が再任されている。参議任官後も左近衛中将を兼ね、後朱雀朝では長元10年(1037年従三位、長久3年(1042年正三位と経輔に先んじて昇進し、後冷泉朝初頭の寛徳2年(1045年)経輔と同時に権中納言に昇任した。

永承3年(1048年)6月4日薨去享年47。最終官位は権中納言正三位兼右兵衛督。

官歴

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注記のないものは『公卿補任』による。

系譜

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源基平に嫁いだ娘が生んだ外孫源基子後三条天皇の寵愛を受けて、実仁親王輔仁親王を生み、一時有力な皇位継承候補者となった。

脚注

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  1. ^ 公卿補任』では宣斉とあるが、『尊卑分脈』は景斉とする。
  2. ^ a b c d e f g 『近衛府補任』

参考文献

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