藤原公利
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時代 | 平安時代前期 |
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官位 | 従四位下・但馬守 |
主君 | 醍醐天皇→朱雀天皇 |
氏族 | 藤原北家魚名流 |
父母 | 父:藤原山蔭 母:筑前介有孝光女 |
兄弟 | 有頼、公利、遂長、言行、兼三、中正、如無、元善子、藤原定方室 |
妻 | 安倍氏主女 |
子 | 仲挙、守義 |
藤原 公利(ふじわら の きみとし)は平安時代の貴族。官位は従四位下・但馬守。中納言・藤原山蔭の次男[1]。
経歴
[編集]延喜2年(902年)10月8日、醍醐天皇の命で、蔵人として斎院・君子内親王の病を労問した[2]。5年(905年)、備中介(受領)となり、醍醐天皇より、御衣一襲を賜った[3]。11年(911年)、備中介を秩満し、都に帰った[4]。
延喜12年(912年)4月8日、父・山蔭の建てた総持寺に鐘を寄進した。この鐘の銘が『朝野群載』に収載されている[1]。
承平7年(937年)、山城前司として、定額寺灯分料米若干を使ったことを赦され、新司・源公忠が補填を引き継いだ[5]。
『古今和歌集』には寵(うつく、源精女)が常陸に罷る時に、公利に詠んだ次の歌がある。この歌の「きみとし」は「君とし」と「公利」の言葉遊びである[6]。
あさなけに 見へききみとし たのまねは 思ひたちぬる 草枕なり — 『古今和歌集』376
官歴
[編集]- 延喜2年(902年) 10月8日:見六位蔵人[2]
- 延喜5年(905年) 春:備中介(受領)[3]
- 延喜11年(911年) 日付不詳:秩満[4]
- 延喜12年(912年) 4月8日:前備前権介[1]
- 承平7年(937年) 日付不詳:見山城前司[5]
- 時期不詳:従四位下・但馬守[7]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『西宮記』, 「史籍集覧 編外 (西宮記) 改定3版」
- 『醍醐天皇御記』, 摂関期古記録データベース
- 『朝野群載』, 国書データベース
- 『古今和歌集』, 日文研和歌データベース
- 宮崎康充編『国司補任 第三』続群書類従完成会、1990年
- 市川久編『蔵人補任』続群書類従完成会、1989年