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藤原公利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 公利
時代 平安時代前期
官位 従四位下但馬守
主君 醍醐天皇朱雀天皇
氏族 藤原北家魚名
父母 父:藤原山蔭 母:筑前介有孝光女
兄弟 有頼公利遂長言行兼三中正如無元善子藤原定方
安倍氏主
仲挙、守義
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藤原 公利(ふじわら の きみとし)は平安時代の貴族。官位は従四位下但馬守中納言藤原山蔭の次男[1]

経歴

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延喜2年(902年)10月8日、醍醐天皇の命で、蔵人として斎院君子内親王の病を労問した[2]。5年(905年)、備中介受領)となり、醍醐天皇より、御衣一襲を賜った[3]。11年(911年)、備中介を秩満し、都に帰った[4]

延喜12年(912年)4月8日、父・山蔭の建てた総持寺を寄進した。この鐘の銘が『朝野群載』に収載されている[1]

承平7年(937年)、山城前司として、定額寺灯分料米若干を使ったことを赦され、新司・源公忠が補填を引き継いだ[5]

古今和歌集』には寵(うつく、源精女)が常陸に罷る時に、公利に詠んだ次の歌がある。この歌の「きみとし」は「君とし」と「公利」の言葉遊びである[6]

あさなけに 見へききみとし たのまねは 思ひたちぬる 草枕なり — 『古今和歌集』376

尊卑分脈』によれば、従四位下但馬守に昇ったという。

官歴

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系譜

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尊卑分脈』による

脚注

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  1. ^ a b c 『朝野群載』巻1,「総持寺鐘銘」
  2. ^ a b 『西宮記』, image 219『醍醐天皇御記』(『醍醐天皇御記』)
  3. ^ a b 『西宮記』, image 264(『醍醐天皇御記』延喜5年3月27日)
  4. ^ a b 『本朝文粋』2「意見封事十二箇条」, 国書刊行会本
  5. ^ a b 『政事要略』56, 国立国会図書館
  6. ^ 小林祥次郎「小林祥次郎の発掘日本の言葉遊び 第5回 物名(隠し題)」, JapanKnowledge, 2002, 2024-10-19確認
  7. ^ 尊卑分脈
  8. ^ 蒲御厨』 - コトバンク
    蒲神明宮』 - コトバンク

参考文献

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関連項目

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