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蒔田定行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
蒔田定行
時代 江戸時代前期
生誕 元和6年12月10日1621年1月2日[1]
死没 元禄3年1月14日1690年2月22日
改名 広則(初名)、定行
別名 権太郎、久太郎、権佐(通称)
戒名 瑞應院月江了心
幕府 江戸幕府 寄合旗本
主君 徳川家光家綱綱吉
氏族 蒔田氏
父母 父:蒔田定正、母:戸田尊次
兄弟 依田信重室、定行山角定勝室、
池田長勝室、石河重勝室、蒔田広正室、
定則小堀政尹室、戸田忠辰
戸田忠能養女
三好氏、蒔田氏
津田正勝室、定次大久保忠照室、広蕃駒木根政方室、遠山伊清室、品川伊氏正室、織田正英室、養子:角南重世定矩石河勝栄蒔田定矩
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蒔田 定行(まいた さだゆき)は、備中国浅尾寄合旗本蒔田定正の長男。

生涯

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寛永18年(1640年)11月22日、父の死後、遺領のうち7016石を相続し、弟定則に1300石を分与した。正保元年(1644年)4月24日、甲府城番となる。正保3年(1646年)10月、台徳院霊廟の普請を命ぜられ、慶安元年(1648年)10月には江戸城西の丸の普請を命ぜられる。承応元年(1652年)、旗本斉藤利意と共に下総国下館城在番となる。寛文2年(1662年)2月8日、定火消に任命され、駿河台土手に火消屋敷を与えられた。12月27日には布衣を許される。延宝3年(1675年)3月10日、持弓頭に転向。延宝5年(1677年)4月14日、百人組頭となる。天和2年(1682年)4月21日、上野国勢多新田山田郡内に700石の加増を受け7716余石となる。

元禄2年(1689年)12月29日に職を辞した。翌元禄3年(1690年)に死去、享年71。家督は婿養子・定矩が継いだ。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『岡山県通史 下編』(岡山県通史刊行会、1962年)p.354