蒔田定行
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時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 元和6年12月10日(1621年1月2日)[1] |
死没 | 元禄3年1月14日(1690年2月22日) |
改名 | 広則(初名)、定行 |
別名 | 権太郎、久太郎、権佐(通称) |
戒名 | 瑞應院月江了心 |
幕府 | 江戸幕府 寄合旗本 |
主君 | 徳川家光、家綱、綱吉 |
氏族 | 蒔田氏 |
父母 | 父:蒔田定正、母:戸田尊次娘 |
兄弟 |
依田信重室、定行、山角定勝室、 池田長勝室、石河重勝室、蒔田広正室、 定則、小堀政尹室、戸田忠辰 |
妻 |
戸田忠能養女 三好氏、蒔田氏 |
子 | 津田正勝室、定次、大久保忠照室、広蕃、駒木根政方室、遠山伊清室、品川伊氏正室、織田正英室、養子:角南重世室、定矩、石河勝栄室、蒔田定矩室 |
蒔田 定行(まいた さだゆき)は、備中国浅尾の寄合旗本。蒔田定正の長男。
生涯
[編集]寛永18年(1640年)11月22日、父の死後、遺領のうち7016石を相続し、弟定則に1300石を分与した。正保元年(1644年)4月24日、甲府城番となる。正保3年(1646年)10月、台徳院霊廟の普請を命ぜられ、慶安元年(1648年)10月には江戸城西の丸の普請を命ぜられる。承応元年(1652年)、旗本斉藤利意と共に下総国下館城在番となる。寛文2年(1662年)2月8日、定火消に任命され、駿河台土手に火消屋敷を与えられた。12月27日には布衣を許される。延宝3年(1675年)3月10日、持弓頭に転向。延宝5年(1677年)4月14日、百人組頭となる。天和2年(1682年)4月21日、上野国勢多、新田、山田郡内に700石の加増を受け7716余石となる。
元禄2年(1689年)12月29日に職を辞した。翌元禄3年(1690年)に死去、享年71。家督は婿養子・定矩が継いだ。
系譜
[編集]脚注
[編集]- ^ 『岡山県通史 下編』(岡山県通史刊行会、1962年)p.354