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津田正勝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
津田正勝
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文16年(1547年
死没 元和3年(1617年
別名 斯波義忠、津田義忠、織田清次、通称:刑部
官位 従五位下刑部少輔
主君 織田信長滝川一益豊臣秀次長谷川秀一松平忠吉前田利長利常
氏族 織田氏津田氏
父母 父:斯波義近?、織田刑部大輔?
兄弟 中川重政盛月木下雅楽助
織田善右衛門正勝、養雲院[1]
竹中重矩
畠山氏娘・海津夫人(畠山家俊孫)
正忠
養子:正俊
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津田 正勝(つだ まさかつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将加賀藩士。加賀藩人持組津田玄蕃家初代当主。正室は畠山氏。子に津田正忠、養子に津田正俊通称は刑部。別名に斯波義忠(よしただ)、津田義忠織田清次官位従五位下刑部少輔

経歴

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『加賀藩史稿』によると、父は斯波義近(ただし年齢が合わない)。正勝ら兄弟の父は一般的には織田刑部大輔とされ、織田信長の叔父・信次の孫にあたるといわれるが、これも年代的に疑問視されることもある[2]。長兄の中川重政津田盛月木下雅楽助などの兄弟がいる[3]

中川重政ら他の兄弟と共に織田信長に仕え、織田氏を称し、後に津田氏に改めた[注釈 1]天正10年(1582年)、滝川一益の配下として神流川の戦いに参加した。一益の失脚後は豊臣秀次に6600石で仕え、従五位下・刑部少輔に叙任された。秀次死後は長谷川秀一松平忠吉に仕えた後に浪人し、京都で隠棲したとされているが、慶長10年(1605年)に豊臣姓を下賜されていることから、何らかの活動を行っていたとも考えられる[4]

慶長16年(1611年)、63歳で元同僚の今枝重直の誘いを受けて前田利長に2000石で仕えた。後に前田利常に仕え、1000石を加増される。大坂の陣の際、出陣を希望したが許されず、大坂冬の陣では金沢城、大坂夏の陣では富山城の留守居役をそれぞれ務めた。

元和3年(1617年)、富山城で死去した。享年71。家督は嫡男・正忠が相続した。当初、正室・畠山氏の甥・正俊を養子としたが、実子の正忠が誕生したため、正俊は蜂須賀家政に仕えた。

正勝の子孫は、代々加賀藩の家老を務め、明治期に斯波へ改姓した。子孫の斯波蕃戊辰戦争の功績で男爵に叙され華族となった。

備考

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妻の畠山氏(海津夫人、畠山家俊の孫)はキリシタンであったとされる。畿内に在住していた頃に入信したとされている。のち加賀藩にてキリスト教に対する禁教令が敷かれ、1614年に高山右近が追放[注釈 2]となった後、能登七尾の本行寺に生涯幽閉(蟄居)となり、同寺に墓所が残る。戒名は「全寿(ゼウス)院殿妙安日玄大姉」。この墓所(石塔)および高山右近とも関連が深い同寺が江戸時代を通じ、加賀藩内の隠れキリシタン信仰の拠り所となったと伝わる。

脚注

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注釈

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  1. ^ 津田姓は織田氏の傍流の名乗りに多く見られる。
  2. ^ 大坂の陣を前にし、キリスト教勢力が豊臣氏側につくことを恐れた江戸幕府による対策、もしくは加賀藩内の意見統一の抗争とも考えられる。

出典

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  1. ^ 名古屋因幡守妻、名古屋山三郎
  2. ^ 「中川重政」『織田信長家臣人名辞典』(第2版)吉川弘文館、2010年、310-312頁。ISBN 9784642014571 
  3. ^ 『前田家所蔵斯波系譜』によれば兄の中川重政を「元 斯波氏にして、足利家の重臣斯波高経の裔なり」としている。
  4. ^ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」1996年。

参考文献

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