津田正勝
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天文16年(1547年) |
死没 | 元和3年(1617年) |
別名 | 斯波義忠、津田義忠、織田清次、通称:刑部 |
官位 | 従五位下・刑部少輔 |
主君 | 織田信長→滝川一益→豊臣秀次→長谷川秀一→松平忠吉→前田利長→利常 |
氏族 | 織田氏→津田氏 |
父母 | 父:斯波義近?、織田刑部大輔? |
兄弟 |
中川重政、盛月、木下雅楽助、 織田善右衛門、正勝、養雲院[1]、 竹中重矩室 |
妻 | 畠山氏娘・海津夫人(畠山家俊孫) |
子 |
正忠 養子:正俊 |
津田 正勝(つだ まさかつ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・加賀藩士。加賀藩人持組津田玄蕃家初代当主。正室は畠山氏。子に津田正忠、養子に津田正俊。通称は刑部。別名に斯波義忠(よしただ)、津田義忠、織田清次。官位は従五位下・刑部少輔。
経歴
[編集]『加賀藩史稿』によると、父は斯波義近(ただし年齢が合わない)。正勝ら兄弟の父は一般的には織田刑部大輔とされ、織田信長の叔父・信次の孫にあたるといわれるが、これも年代的に疑問視されることもある[2]。長兄の中川重政、津田盛月、木下雅楽助などの兄弟がいる[3]。
中川重政ら他の兄弟と共に織田信長に仕え、織田氏を称し、後に津田氏に改めた[注釈 1]。天正10年(1582年)、滝川一益の配下として神流川の戦いに参加した。一益の失脚後は豊臣秀次に6600石で仕え、従五位下・刑部少輔に叙任された。秀次死後は長谷川秀一、松平忠吉に仕えた後に浪人し、京都で隠棲したとされているが、慶長10年(1605年)に豊臣姓を下賜されていることから、何らかの活動を行っていたとも考えられる[4]。
慶長16年(1611年)、63歳で元同僚の今枝重直の誘いを受けて前田利長に2000石で仕えた。後に前田利常に仕え、1000石を加増される。大坂の陣の際、出陣を希望したが許されず、大坂冬の陣では金沢城、大坂夏の陣では富山城の留守居役をそれぞれ務めた。
元和3年(1617年)、富山城で死去した。享年71。家督は嫡男・正忠が相続した。当初、正室・畠山氏の甥・正俊を養子としたが、実子の正忠が誕生したため、正俊は蜂須賀家政に仕えた。
正勝の子孫は、代々加賀藩の家老を務め、明治期に斯波へ改姓した。子孫の斯波蕃が戊辰戦争の功績で男爵に叙され華族となった。
備考
[編集]妻の畠山氏(海津夫人、畠山家俊の孫)はキリシタンであったとされる。畿内に在住していた頃に入信したとされている。のち加賀藩にてキリスト教に対する禁教令が敷かれ、1614年に高山右近が追放[注釈 2]となった後、能登七尾の本行寺に生涯幽閉(蟄居)となり、同寺に墓所が残る。戒名は「全寿(ゼウス)院殿妙安日玄大姉」。この墓所(石塔)および高山右近とも関連が深い同寺が江戸時代を通じ、加賀藩内の隠れキリシタン信仰の拠り所となったと伝わる。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 名古屋因幡守妻、名古屋山三郎母
- ^ 「中川重政」『織田信長家臣人名辞典』(第2版)吉川弘文館、2010年、310-312頁。ISBN 9784642014571。
- ^ 『前田家所蔵斯波系譜』によれば兄の中川重政を「元 斯波氏にして、足利家の重臣斯波高経の裔なり」としている。
- ^ 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」1996年。
参考文献
[編集]- 『加賀藩史稿』[要文献特定詳細情報]