荒川定由
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時代 | 江戸時代 |
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生誕 | 寛文6年(1666年) |
死没 | 享保6年8月3日(1721年9月23日) |
別名 | 左門、外記、内記 |
戒名 | 光徹 |
墓所 | 万昌院 |
幕府 | 江戸幕府旗本 |
氏族 | 荒川氏(清和源氏足利氏流、吉良氏庶流) |
父母 | 父:荒川定昭 |
兄弟 | 定恒、定由、一色吉之丞、一色彦三郎、高木正容、女(柘植兄正室)、女(坂井成徳室)) |
妻 | 正室:某氏、継室:織田信門の娘 |
子 | 定長、女(荒川定親室) |
荒川 定由(あらかわ さだよし)は、江戸時代中期の旗本。御使番として巡見使に任じられたが、報告書が粗略だったため御使番を罷免された。
生涯
[編集]寛文6年(1666年)、御書院番組頭荒川定昭の次男として生まれる。
延宝7年(1675年)3月29日、10歳で将軍徳川家綱に初謁する。貞享2年(1685年)2月14日、職務上の不始末をした父に連座し、父や兄とともに丹羽長次(陸奥二本松藩)に預けられた。貞享3年(1686年)6月25日、一族とともに赦免される。
元禄2年(1689年)に兄の定恒が没したため、荒川家の嗣子となる。宝永3年(1706年)11月27日、父の致仕により家督を継ぎ、寄合に列する。宝永6年(1709年)11月28日、御使番となり、同年12月18日、布衣の着用をゆるされる(六位相当になったことを意味する)。宝永7年(1710年)5月1日には命を受けて志摩国鳥羽城(転封された松平乗邑の旧領)に派遣され、板倉重治への城引渡しの役を担う。
将軍徳川吉宗就任後の享保元年(1716年)9月1日、命を受けて関八州の巡視にあたった。しかし、帰任後の報告書の書面が粗略であったため、「仰をうけたまはりし詮なく、ことに定由は御使番をも勤めながら、かゝる始末に及びしこと等閑のいたりなり」[1]として翌享保2年(1717年)2月19日に御使番を罷免されて小普請に落とされ、出仕もとどめられた。5月13日には出仕差し止めをゆるされた。
享保6年(1721年)8月3日死去。享年52。
脚注
[編集]- ^ 『寛政重修諸家譜』巻第九十三、荒川定由
参考文献
[編集]- 『寛政重修諸家譜』巻第九十三