コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

叡尊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
興正菩薩から転送)
叡尊
建仁元年 - 正応3年8月25日
1201年 - 1290年9月29日
諡号 興正菩薩
生地 大和国
宗派 真言律宗
弟子 忍性信空など
著作 『感身学正記』
西大寺奥ノ院
テンプレートを表示

叡尊(えいそん、えいぞん、旧字体叡尊󠄁)は、鎌倉時代中期に活動したで、真言律宗を興した。思円(しえん、旧字体思圓)。諡号興正菩薩(こうしょうぼさつ)。興福寺の学僧・慶玄の子で、大和国添上郡箕田里(現・奈良県大和郡山市内)の生まれ。鎌倉仏教を代表する一人で、廃れかけていた戒律を復興し、衰退していた勝宝山西大寺(南都西大寺)を再興したことで知られる。

年譜

[編集]

主な活動

[編集]
善春作・木造叡尊坐像(弘安3年(1280年)の作、西大寺所蔵、国宝)[1]

授戒を行ったほか、聖徳太子信仰文殊信仰、真言密教(光明真言)などを広めた。殺生禁断、一部の仏教宗派が救済対象としなかった女性や貧者、ハンセン病患者などへの慈善、宇治橋の修繕[* 6]といった社会事業にも尽くした。このため非人癩病者から公家、鎌倉幕府執権後嵯峨上皇亀山上皇後深草上皇などの皇族に至るまで、貴賎を問わず帰依を受けた。「興法利生」を唱えて在家信者を含めて10万人近くに戒律を授け、西大寺の末寺は全国で一時1500を超えた[2]

60歳になった弘長2年に、鎌倉幕府執権北条時頼に招かれ鎌倉に下り、広く戒を授け、また律を講じた(その時の記録が、随行の弟子・性海(しょうかい)による奈良から鎌倉への約半年間の旅・滞在記『関東往還記かんとうおうげんき、かんとうおうかんき』である)。国分寺法華寺の再興にも務めて、長年閉ざされてきたへの授戒を開いた。晩年の弘安5年(1282年)に、四天王寺別当の地位を巡って天台座主延暦寺)の最源園城寺長吏隆弁が自派の候補を出し合って争った際には、朝廷の懇願を受け両者と利害関係のない叡尊が別当に就任している。著名な弟子に忍性信空などが居る。

一般には戒律・律宗復興の業績で知られているが、叡尊の本来の意図は権力と結びつきすぎたことから生じた真言宗僧侶の堕落からの再生のために、まず仏教教学の根本である戒律及びその教学的研究である律宗の再興にあった。一方で叡尊自身も慈善活動の為とはいえ権力と関係を持ち、木戸銭などの徴収権を得ていたのも事実であり、戒律に対する考えの違いもあり日蓮から「律国賊」と批判された。

日本律宗の祖である鑑真が「四分律」を奉じたのを受け継いで、叡尊も覚盛同様「四分律」を奉じている(叡尊が空海の重んじた「十誦律」を奉じた、というのは誤り)。戒律復興と並行して真言密教の研究を重視しており、弟子の忍性が東国において、社会活動や布教に熱を入れすぎ、教学が疎かになっているのを「慈悲ニ過ギタ…」と[* 7](なだ)めたり、元寇に際しては西大寺や四天王寺などで、蒙古軍撃退の祈祷鎮護国家密教儀典を行っている[3]

著述に『感身学正記』『興正菩薩御教誡聴聞集』『表無表章詳体文集』『梵網経古迹記輔行文集』などがある。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 「律学の研鑽は行なわれても、すでに戒師の存在は地を払って皆無の状態であったから、律宗復興の基本的な前提として、まず比丘僧と名づけることのできるものがどのようにして得られるか、そこに焦点がしぼられ、その唯一の方法として、『自誓』という手段が取られたものである。」(石田瑞麿「叡尊の戒律について」- 『重源・叡尊・忍性 日本名僧論集 第5巻』吉川弘文館)に所収、なお他に5編の論考がある。
  2. ^ 数年前から天変地異が頻発し飢饉疫病が流行していたが、それを祈祷により鎮めるべき役割を担う僧侶は鎌倉の地においては破戒念仏僧や他宗誹謗の法華僧らが横行していた。こうした仏法を是正するためには戒律によるしかないと鎌倉の為政者が考えたものと思われる。
  3. ^ このとき北条時頼から西大寺援助のための布施や寺領寄進の申し出があったが決して受けず、断固として為政者の資縁を拒否し続けた。
  4. ^ 当時、南宋の僧らによりモンゴル帝国の侵略について日本にも伝わっており、元寇の前段階としてモンゴル帝国も日本へ使者を派遣していた。
  5. ^ 長年にわたり山門派寺門派が別当職をめぐり争っていたが、鎌倉期、特に元寇を機に太子信仰が高まってくると、別当として「世一の僧」(最も勝れた僧)が求められるようになり、叡尊の就任に至ったと考えられる。
  6. ^ 修理の際に宇治川の網代を破却して漁師に殺生を止めさせ、代わりに布を川に晒す作業を職業として与えたという。
  7. ^ 忍性は師の叡尊が、当時の仏教観で救済されない非人救済に専念する余りに一般民衆への救済が疎かとなり、また救済に差をつける事で却って非人への差別観を助長することを危惧して、非人を含めた全ての階層救済を目指した。また、権力との距離に対する考え方にも違いがあったと言われている。

出典

[編集]
  1. ^ 木造叡尊坐像〈善春作/〉 - 国指定文化財等データベース(文化庁)、2020年1月20日閲覧。
  2. ^ 「奈良 西大寺展 叡尊と一門の名宝」『日本経済新聞』朝刊2017年4月8日
  3. ^ 『持戒の聖者叡尊・忍性 日本の名僧10』(吉川弘文館、2004年)より

参考文献

[編集]

関連文献

[編集]
  • 松尾剛次 『中世律宗と死の文化』(吉川弘文館、2010年)
  • 松尾剛次 『中世叡尊教団の全国的展開』(法藏館、2017年)
  • 松尾剛次 『鎌倉新仏教論と叡尊教団』(法藏館、2019年)
  • 追塩千尋 『中世の南都仏教』(吉川弘文館、1995年)
  • 中尾堯 『中世の勧進聖と舎利信仰』(吉川弘文館、2001年)
  • 蓑輪顕量 『中世初期南都戒律復興の研究』(法藏館、1999年)
  • 奈良国立文化財研究所『西大寺叡尊傳記集成』(法藏館、第2版・2012年)

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]