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賢憬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

賢憬(けんけい、和銅7年(714年) - 延暦12年11月8日793年12月15日))は、奈良時代法相宗。俗姓は荒田井氏。尾張国の出身。賢璟(けんきょう)とも称される。尾張僧都あるいは尾張大僧都とも呼ばれた。

興福寺宣教に師事して唯識法相を学ぶ一方で苦業練行を重ね、天平15年(743年)正月に「師主元興寺賢璟」として同族の子麻呂を優婆塞に貢進推挙した。754年天平勝宝6年)の僧鑑真難波に迎え、翌755年(天平勝宝7歳)には旧戒を破棄して鑑真から具足戒を受けた。758年天平宝字2年)には唐招提寺一切経420巻を奉納している。774年宝亀5年)に律師に任じられている。宝亀9年(778年)頃に大和国室生山で延寿法を修して山部皇太子(後の桓武天皇)の宿痾を治したために、後に桓武天皇の深い信頼を得た。780年(宝亀11年)多度大社神宮寺に三重塔を建立、また宝亀年間(770年-780年)には室生寺を創建している。784年(延暦3年)大僧都に任じられる。延暦4年(785年)4月の最澄の戒牒や『多度神宮寺伽藍縁起並資財帳』に、ともに僧綱の一人として署名した。793年(延暦12年)遷都を行うにあたって遷都先の地を選ぶ際、山背(山城)の地に派遣されている。その際、比叡山文殊堂供養で導師をつとめている。同年11月8日に80歳で没した。

高い学識で知られ、大安寺戒明が入唐求法で請来した「釈摩訶衍論」を調べてこれを偽書と判定し、最澄と会津の徳一との論争に影響を与えた。多くの弟子がいたが、その中でも修円明福は有名である。