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胡長粲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

胡 長粲(こ ちょうさん、生没年不詳)は、東魏北斉外戚本貫安定郡臨涇県

経歴

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東魏の孝静帝の母方のおじである胡虔の子として生まれた。外戚として給事中を初任とし、黄門侍郎に転じた。章武郡太守に累進した。後主が即位すると、長粲は黄門の馮子琮とともに禁中を出入りして、もっぱら敷奏をつかさどった。武成帝に帰り、後主が晋陽に残ると、長粲は留後をつとめた。後主が鄴に帰ると、長粲は度支尚書となり、五礼の議論に参与した。武成帝が死去すると、長粲は婁定遠趙彦深和士開元文遙綦連猛高阿那肱唐邕とともに朝政を取りしきり、当時の人に八貴と称された。後に婁定遠と元文遙は左遷され、唐邕は外朝の兵をつかさどり、綦連猛と高阿那肱は別に武職を統括するようになったが、長粲はつねに後主の側近にあり、詔令を発表する任を兼ね、晋陽への行幸にも従った。後主は長粲を信任して庶務をすべて任せた。一族の隴東王胡長仁に恨まれ、長仁が胡太后に誣告したため、後主もやむなく長粲を左遷せざるをえず、趙州刺史として出した。長粲が趙州に到着すると、髪を洗うにも手を上げられず、声も出なくなって、まもなく死去した。司空公・尚書左僕射・瀛州刺史の位を追贈され、は文貞公といった。

子女

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  • 胡仲操(陳留郡太守)
  • 胡叔泉(通直散騎侍郎)

伝記資料

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