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趙彦深

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

趙 彦深(ちょう げんしん、507年 - 576年)は、中国東魏から北斉にかけての官僚政治家。本名は隠。は彦深。本貫南陽郡宛県[1][2][3]

経歴

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趙奉伯と傅華のあいだの子として生まれた。幼いころに父を失い、貧しい生活のなかで母に孝事した。はじめ尚書令司馬子如の賤客となり、書写をつとめた。子如は彦深の仕事に誤りがないのに感心して、官庁に入れるために衣服を与えた。書令史に任用されて、1月あまりで正令史となった[4][2][5]

高歓晋陽にいたとき、2人の史を求めると、子如は彦深を推挙した。後に彦深は子如の下で開府参軍をつとめ、水部郎の位を受けた。高澄尚書令となって人事にあたると、彦深は滄州別駕として出向を命じられたが、固辞して行かなかった。子如が高歓に彦深を大丞相功曹参軍として任用するよう推薦し、高歓の発行する文書の多くは彦深の手で書かれた。彦深の慎重な仕事ぶりは高歓に高く評価された[6][7][8]

武定5年(547年)1月、高歓が死去すると、その死は秘密とされた。3月、高澄は河南で変事が起こることを警戒して出立し、彦深に晋陽の留守を委ねて大行台都官郎中に任じた。6月、高澄が晋陽に帰還して喪を発すると、彦深は安国県伯に封じられた。武定7年(549年)、潁川攻撃の軍に参加して、西魏王思政を包囲した。潁川陥落が近く、高澄は彦深に単身入城して降伏を説得するよう命じた。その日のうちに潁川の西魏軍は降伏し、彦深は自ら王思政の身柄を引いて城を出た[9][10][8]

高洋が渤海王位を嗣ぐと、彦深は国政の機密をつかさどり、爵位は侯に進んだ。北斉の天保元年(550年)、秘書監となった。太僕卿を兼ね、大司農に転じた。文宣帝が巡幸におもむくと、彦深は太子を補佐して、後事を任された。東南道行台尚書・徐州刺史として出向し、趙行台頓と称された[11][10][12]。天保6年(555年)11月、蕭軌の南征に従い、南朝梁から秦郡など5城を奪い、当地の治安を安定させた[13][14]。召還されて侍中となり、また国政の機密をあずかった。河清元年(562年)、爵位は安楽公に進んだ[15][10][16]。河清2年(563年)3月、尚書左僕射となった[17][18][19]斉州大中正・監国史をつとめた[15][10][16]天統3年(567年)閏6月、尚書令に任じられた[20][21][22]。特進となり、宜陽王に封じられた[15][10][16]武平2年(571年)2月、司空の位を受けた[23][24][25]祖珽とのあいだが険悪となり[15][10][16]、11月に西兗州刺史として出された[26]。武平4年(573年)4月、召還されてまた司空となった[27][28][29]。武平6年(575年)閏月、司徒に転じた[30][31][32]。武平7年(576年)、母の喪に服すため辞職し、まもなく本官に復職した。6月、突然の病のため死去した。享年は70[15][33][16]

人物・逸話

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  • 彦深が3歳のとき、家人は母の傅華に再嫁させようとしたが、傅華は死を誓って許さなかった[34][33][16]
  • 彦深が5歳のとき、傅華が「家は貧しく子は小さいのに、どうやって生きていくことができよう」と彦深に言った。彦深は泣いて「もし天に哀れみがあるなら、子が大きくなって良い知らせもありましょう」と言った。傅華は息子の言葉に感動して、涙を流した。後に彦深が太常卿となると、帰宅して朝服も脱がず、まずは母に会って跪き、幼少の露命をつなぎ、母の教えでここにいったことを述べた。母子はともに泣くこと久しかった。傅華は後に宜陽国太妃となった[34][33][16]
  • 彦深が10歳のとき、司徒崔光に面会して、将来を嘱望された[4][2][3]
  • 彦深の性格は聡明で、書記や会計を得意とし、あまり人と交遊せず、安閑とした暮らしを楽しんだ。いつも人に見られないように自邸の門外を掃き清めていた[4][2][5]
  • 王思政を潁川で包囲したとき、高澄は「わたしは昨夜狩猟の夢を見て、1群の猪に出会った。わたしはそれらを射てことごとく仕留めたが、ただ1頭の大猪だけを仕留めることができなかった。卿がわたしに取るよう言うと、たちまち残った大猪を仕留めて進むことができた」と彦深に言った。潁川が陥落すると、高澄は笑って「夢のしるしだったな」と言って、王思政の佩刀を彦深に与え、「卿が常にこの利を得られるように」と言った[9][2][8]
  • 彦深は東魏・北斉の高氏歴代に仕えて、常に側近にあり、温厚でつつましく、喜怒を顔に出さなかった。皇建年間以後は、礼遇がことに重く、皇帝の引見を受けても、官号で呼ばれて実名を出されなかった[15][33][16]
  • 彦深は人材を推薦するにあたって、実績を重んじて、軽薄な人物は歯牙にもかけなかった[15][33][16]
  • 常山王高演が北斉の政権を握ると、群臣の多くが帝位につくよう勧進したが、彦深はひとり沈黙を守った。高演が王晞に相談し、王晞が彦深に告げると、彦深はやむをえず勧進に動いた。かれの挙動は当時たいへん重んじられていた[15][33][16]

家族

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後漢太傅趙憙の後裔と自称していた。

  • 高祖父:趙難(清河郡太守[35][2][3]
  • 父:趙奉伯(北魏の中書舎人・行洛陽県令。司空の位を追贈された)[4][2][3]
  • 母:傅華(483年 - 576年、清河郡貝丘県の人。済南郡太守傅天民の娘。東魏の武定末年に清河郡君となり、北斉の天統年間に平原郡長君となり、武平初年に宜陽国太妃となった。諡は貞穆)[36]

趙彦深には7人の子があり、とくに趙仲将が名を知られた。

脚注

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  1. ^ 氣賀澤 2021, pp. 484–485.
  2. ^ a b c d e f g 北斉書 1972, p. 505.
  3. ^ a b c d 北史 1974, p. 2006.
  4. ^ a b c d 氣賀澤 2021, p. 485.
  5. ^ a b 北史 1974, pp. 2006–2007.
  6. ^ 氣賀澤 2021, pp. 485–486.
  7. ^ 北斉書 1972, pp. 505–506.
  8. ^ a b c 北史 1974, p. 2007.
  9. ^ a b 氣賀澤 2021, p. 486.
  10. ^ a b c d e f 北斉書 1972, p. 506.
  11. ^ 氣賀澤 2021, pp. 486–487.
  12. ^ 北史 1974, pp. 2007–2008.
  13. ^ 氣賀澤 2021, p. 90.
  14. ^ 北斉書 1972, p. 61.
  15. ^ a b c d e f g h 氣賀澤 2021, p. 487.
  16. ^ a b c d e f g h i j 北史 1974, p. 2008.
  17. ^ 氣賀澤 2021, p. 119.
  18. ^ 北斉書 1972, p. 91.
  19. ^ 北史 1974, p. 283.
  20. ^ 氣賀澤 2021, p. 126.
  21. ^ 北斉書 1972, p. 100.
  22. ^ 北史 1974, p. 289.
  23. ^ 氣賀澤 2021, p. 131.
  24. ^ 北斉書 1972, p. 104.
  25. ^ 北史 1974, p. 292.
  26. ^ 隋書 1973, p. 638.
  27. ^ 氣賀澤 2021, p. 134.
  28. ^ 北斉書 1972, p. 107.
  29. ^ 北史 1974, p. 295.
  30. ^ 氣賀澤 2021, p. 136.
  31. ^ 北斉書 1972, p. 108.
  32. ^ 北史 1974, p. 296.
  33. ^ a b c d e f g h 北斉書 1972, p. 507.
  34. ^ a b c 氣賀澤 2021, p. 488.
  35. ^ 氣賀澤 2021, p. 484.
  36. ^ 趙 2008, pp. 473–474.
  37. ^ 北史 1974, pp. 2008–2009.
  38. ^ 氣賀澤 2021, p. 489.
  39. ^ 北史 1974, p. 2009.

伝記資料

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参考文献

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  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4 
  • 『隋書』中華書局、1973年。ISBN 7-101-00316-8 
  • 趙超『漢魏南北朝墓誌彙編』天津古籍出版社、2008年。ISBN 978-7-80696-503-0