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胡皇后 (北斉武成帝)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
胡皇后
北斉の皇后
在位 562年 - 565年

配偶者 武成帝
子女 後主
氏族 安定胡氏
父親 胡延之
母親 盧道約の娘
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胡皇后(ここうごう、生没年不詳)は、北斉武成帝高湛の皇后後主を生み、皇太后に立てられた。本貫安定郡臨涇県

経歴

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父は胡延之。母は范陽の盧道約の娘。天保初年、胡氏は選抜されて長広王高湛の妃となった[1][2]。高緯(後主)と高儼を産んだ。562年河清元年)、武成帝の皇后に立てられた[3][4][5]565年(河清4年)、武成帝が太上皇帝となり、後主が皇帝に即位すると、胡皇后は太上皇后となった。569年1月(天統4年12月)、太上皇帝(武成帝)が死去すると、太上皇后胡氏は皇太后に立てられた[6][7][8]。胡太后は沙門の曇献と密通したが、発覚して曇献は処刑された[2]。後主により胡太后はの北宮に幽閉されたが、後に解放された。北斉が滅び、北周に入ると、胡氏はまた乱行をほしいままにした。開皇年間に死去した[9][10][11]

逸話・人物

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  • 母の盧氏が懐妊したとき、ある胡僧が家を訪れて「この家には瓠蘆の中に月がある」と言い、胡氏が生まれたと伝えられる[1][2][12]
  • 武成帝のとき、胡氏は宦官たちと親しく馴れ合った。武成帝が和士開を信任して側近に置いたため、胡氏は和士開と姦通することとなった。武成帝の死後、和士開陸令萱と結託して趙郡王高叡の殺害を図り、婁定遠高文遙刺史として出させた。陸令萱と和士開は胡太后に仕えてへつらった[1][2][12]
  • 武成帝の死後、胡太后はたびたび仏寺におもむいて、沙門の曇献と通じた。太后は僧侶たちを宮殿内に置き、聴講にかこつけて日夜また曇献と寝所をともにした。曇献は昭玄統に上った。僧侶たちは曇献のことをひそかに太上と呼んだ。後主は胡太后の不貞の噂を知っていたが信じてはいなかった。後に太后のもとに通うふたりの若い尼を見て、後主が召しだすと、実は男であることが発覚した。このため太后と曇献の関係が発覚し、曇献らは処刑され、あわせて太后と昵懇の間柄であった元郡君・山郡君・王郡君も殺害された[13][2][14]
  • 後主が晋陽から太后を連れて鄴に帰る途中、紫陌で大風に遭って立ち往生した。舎人の魏僧伽が風占で謀反の企みのあることを上奏した。後主はいつわって鄴中に急変があったといい、鄴の南城に駆け込んだ。鄧長顒に命じて太后を北宮に幽閉させた。後主は太后と会わないと誓って公表したが、長らくして後主は再び太后を迎えさせた。このとき後主の使者がやってくると、太后は驚いて殺されるのかと警戒した。後に太后が後主を食事に招いたが、後主もあえて毒味しようとしなかった[9][15][11]
  • 北周の使者の元偉が来朝し、述行賦を作った。その内容は荘公が弟のを討ち、母の姜氏を移した故事を扱っていた。賦の出来はよくなかったが、故事の示唆する醜聞は当時の人々の知るところであったため、北斉の人士たちは深く恥とした[9][10][11]

脚注

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  1. ^ a b c 氣賀澤 2021, p. 150.
  2. ^ a b c d e 北斉書 1972, p. 126.
  3. ^ 氣賀澤 2021, p. 118.
  4. ^ 北斉書 1972, p. 90.
  5. ^ 北史 1974, p. 282.
  6. ^ 氣賀澤 2021, pp. 128–129.
  7. ^ 北斉書 1972, p. 101.
  8. ^ 北史 1974, p. 290.
  9. ^ a b c 氣賀澤 2021, p. 151.
  10. ^ a b 北斉書 1972, p. 127.
  11. ^ a b c 北史 1974, p. 523.
  12. ^ a b 北史 1974, p. 522.
  13. ^ 氣賀澤 2021, pp. 150–151.
  14. ^ 北史 1974, pp. 522–523.
  15. ^ 北斉書 1972, pp. 126–127.

伝記資料

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参考文献

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  • 氣賀澤保規『中国史書入門 現代語訳北斉書』勉誠出版、2021年。ISBN 978-4-585-29612-6 
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4