胡善祥
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胡皇后 | |
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明の皇后 | |
在位 |
洪熙元年7月8日 - 宣徳3年3月1日 (1425年7月22日 - 1428年3月16日) |
全名 | 胡善祥 |
別称 | 恭譲誠順康穆静慈章皇后 |
出生 |
建文4年4月10日 (1402年5月11日) 済寧府 |
死去 |
正統8年11月5日 (1443年11月26日) 順天府、紫禁城 |
配偶者 | 宣徳帝 |
子女 | 順徳公主 |
父親 | 胡栄 |
母親 | 劉氏 |
胡 善祥(こ ぜんしょう)は、明の宣徳帝の最初の皇后。恭譲皇后(きょうじょうこうごう)と諡された。
経歴
[編集]済寧府の人。胡栄の三女。母は劉氏[1]。洪武帝の時期、長姉の胡善圍が尚宮(女官)に任じられ、胡栄が正六品錦衣衛百戸となった。建文帝が即位すると、胡栄は免職された。
永楽15年(1417年)、胡善祥は永楽帝に召されて皇太孫朱瞻基(後の宣徳帝)の妃(正室)となった。朱瞻基は孫氏を寵愛して胡善祥をあまり寵愛しなかった。洪熙帝が即位すると皇太子妃に立てられ、宣徳帝が即位すると皇后に立てられた。胡栄は正二品錦衣衛指揮僉事に任じられた。
宣徳3年(1428年)、貴妃孫氏が男子の朱祁鎮(後の英宗)を産んだ。胡善祥は病の上に男子がないという理由で廃され、清寧宮に移された。そして、皇后の礼で遇されたが、道士にさせられた。法号は「静慈仙師」。代わって孫氏が皇后に立てられた。姑の張太后は胡氏を憐れんで、清寧宮の自身の居所へいつも招いた。
英宗の正統6年(1441年)4月、胡栄が死去した[2]。翌正統7年(1442年)、張太后が崩じた。その葬儀で胡善祥は、妃嬪と共に配列された。さらに正統8年(1443年)、娘の順徳長公主も子供をもうけずに薨じた。胡善祥はその後まもなく亡くなった。
没後、嬪の礼で金山に葬られた。英宗の天順年間に恭譲誠順康穆静慈章皇后の諡が贈られ、皇后の礼で改葬された。
子女
[編集]- 順徳公主 - 石璟に降嫁した。
- 永清公主 - 早世
伝記資料
[編集]- 『明史』
- 『明宣宗実録』
- 『明英宗実録』