銭皇后
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銭皇后 | |
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明の皇后 | |
孝荘睿皇后銭氏 | |
在位 |
正統7年5月19日 - 正統14年12月1日 (1442年6月26日 - 1449年12月15日) 天順元年2月6日 - 天順8年3月1日 (1457年3月1日 - 1464年4月7日) |
別称 | 孝荘献穆弘恵顕仁恭天欽聖睿皇后 |
出生 |
宣徳2年6月29日 (1426年8月2日) 淮安府海州 |
死去 |
成化4年6月26日 (1468年7月15日) 順天府、紫禁城 |
配偶者 | 英宗 |
父親 | 銭貴 |
母親 | 陳氏 |
兄弟 | 銭欽、銭鐘 |
銭皇后(せんこうごう)は、明の第6代・第8代皇帝である英宗の皇后である。
生涯
[編集]淮安府海州の人。正二品都督同知の銭貴の娘として生まれた。母は陳氏[1]。
正統7年(1442年)5月、太皇太后張氏に選抜されて英宗の皇后となる。英宗を一途に愛した。土木の変では英宗が捕虜になった上、兄弟2人(銭欽・銭鐘)が戦死した[2]。仁寿宮(先帝の妃嬪の居所)にうつされた銭皇后は、ショックから濡れた地面に寝て泣き崩れ、日々と天へ向き涙ながらに訴求し、身体に障害を患い、右眼を失明し、また足が不自由となったともいう。奪門の変で英宗が重祚すると、再び皇后として立てられた。
英宗の間に生きている子供はなかった[3]。このため周貴妃(孝粛皇后)に太子の朱見深(成化帝)が生まれると、銭皇后は皇后の地位をめぐって周氏と争った。英宗は崩御する直前、銭皇后を廃位しないよう遺命した。銭皇后は英宗の崩御から4年後の成化4年(1468年)に死去した。死後、英宗の遺命による合葬は、皇太后となった周氏の反対で実現されずに終わった。孝荘献穆弘恵顕仁恭天欽聖睿皇后の諡号を贈られた。
脚注
[編集]- ^ 銭貴の正妻ではなく、関係は不明。封誥が成化8年までなかった。銭貴の正妻の包氏(正四品燕山衛指揮僉事の包諒の娘)が、婚礼の際に実母のふりをした。
- ^ 銭貴はすでに没しており、この2人以外に兄弟はいなかったため、銭氏の実家は一度断絶した。しかし翌年、銭鐘の遺腹の子が生まれた。
- ^ 英宗の夭折した長女(重慶公主とは別人)は生没年・実名・位号・諡・実母について記録が全くないが、銭皇后が生母の可能性はある。
参考文献
[編集]- 『明英宗実録』
- 『明憲宗実録』