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繁沢就充

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
繁沢就充
時代 江戸時代
生誕 慶長19年(1614年
死没 元禄8年5月19日1695年6月30日
改名 益田峯松(幼名)→益田就充→繁沢就充
別名 次郎兵衛(通称)、入道足菴
官位 采女正
主君 毛利秀就綱広
長州藩
氏族 益田氏→繁沢家
父母 父:益田元堯
養父:繁沢元貞
兄弟 益田就宣繁沢就充益田就恒
井原就尭、女(宍道就明室)、
女(八幡新善法寺正晃室)
正室:(繁沢元貞の娘)
養子:益田織部木原万作就親
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繁沢 就充(はんざわ なりみつ)は、江戸時代前期の長州藩士。父は益田元堯繁沢元貞の娘婿として繁沢家を継ぐ。

生涯

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慶長19年(1614年)、益田元堯の次男として生まれる。元和9年(1623年9月18日毛利秀就から采女正の官途名と「就」の偏諱を与えられ、就充と名乗った。

寛永4年(1627年)に繁沢元貞が死去したため、寛永6年(1629年)に元貞の娘・と婚姻し、元貞の知行500石を相続した。同年11月23日に毛利秀就は、就充と松の2人にそれぞれ書状を送り、不和によって離縁した場合は元貞の旧知行を松に与え、松に不届きがあって離縁した場合は就充に元貞の旧知行を与えることとした。

就充には蔵米1500石が与えられていたが、寛文9年(1669年2月28日毛利綱広から500石の田地を与えられ、合わせて2000石となった。

元禄8年(1695年5月19日に82歳で死去。益田就高の弟である就親が跡を継いだ。

系譜

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参考文献

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  • 萩藩閥閲録』巻30「繁澤采女」
  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション