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繁沢元貞

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
繁沢元貞
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 文禄4年(1595年
死没 寛永4年7月8日1627年8月18日
改名 繁沢才力(幼名)→繁沢元貞→朝倉元貞→繁沢元貞
別名 忠三郎(通称)、監物
戒名 瑞雲珠元
主君 毛利秀就
長州藩
氏族 繁沢家→朝倉氏→繁沢家
父母 父:毛利元氏、母:仁保隆在の娘
養父:朝倉元息
兄弟 長山御たや三浦元忠正室)、毛利元景
女(宮庄伊賀守室)、元貞、女(草刈就継室)、
百合之助木原就重、女(飯田就重室)、
女(内藤就正室)、就真、女(井原元栄室)、
女(早世)
正室:香川就景の娘
松(繁沢就充室)
養子:就充
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繁沢 元貞(はんざわ もとさだ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将毛利氏の家臣。父は吉川元春の次男・繁沢元氏

生涯

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文禄4年(1595年)、吉川元春の次男である繁沢元氏の次男として生まれる。元和7年(1621年)、毛利秀就より、監物の官途名を与えられた。

朝倉元息(兵庫)が跡継ぎのいないまま死去したため、家臣・上田秋宣の願い出によって元貞は朝倉家を相続した。しかし、事情により元貞は浪人となったため、朝倉氏は断絶となった。

その後、歳の離れた兄・元景によって証人として江戸へ遣わされ、数年間を江戸で過ごした。また、500石の知行を与えられて別家を起こしたが、寛永4年(1627年7月8日に33歳で死去した。益田元尭の次男・就充が元貞の娘・松と婚姻し、婿養子として後を継いだ。

参考文献

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  • 萩藩閥閲録』巻30「繁澤采女」
  • 防長新聞社山口支社編 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639OCLC 703821998全国書誌番号:73004060 国立国会図書館デジタルコレクション