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細川利永

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
細川 利永
時代 江戸時代末期(幕末) - 明治時代
生誕 文政12年1月24日1829年2月27日
死没 明治34年(1901年4月19日
改名 綱之助(幼名)→利永
墓所 東京都品川区北品川の東海寺妙解院
官位 従三位若狭守(廃止)、子爵
幕府 江戸幕府明治政府
主君 徳川家定同家茂同慶喜明治天皇
肥後肥後新田藩(高瀬藩)主
氏族 細川氏
父母 父:細川利愛、母:山川氏
養父:細川利用
兄弟 利正利永倫親
正室:宇津忠誠の娘
側室:玉島(宇津氏)
利義水野忠宝、他男子3名、娘(戸田康泰正室のち細川利文正室)
養子:利祐利文
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細川 利永(ほそかわ としなが)は、江戸時代末期の大名、明治時代華族位階爵位従三位子爵

肥後肥後新田藩(高瀬藩)の第10代(最後)藩主、同藩初代知事。

生涯

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文政12年(1829年)1月24日、第8代藩主・細川利愛の三男として生まれる。嘉永6年(1853年)5月に従兄で第9代藩主の利用の養子となり、安政3年(1856年)7月21日に利用が隠居したため跡を継いだ。同年12月に従五位下、若狭守に叙任する。

元治元年(1864年)4月、神田橋御門番、慶応元年(1865年)7月、佃島砲台警備などを務めた。慶応4年(1868年)7月25日、藩名を高瀬と改名する。明治2年(1869年)、同族の宇土藩と共に大原口警護を務めた。明治3年(1870年)9月4日、廃藩となり、その所領は本家熊本藩に合併された。明治17年(1884年)7月8日、子爵に列する。

明治34年(1901年)4月19日に死去した。享年73。

栄典

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家族

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父母

子女

養子

脚注

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  1. ^ 『官報』第5335号「叙任及辞令」1901年4月19日。
  2. ^ 細川利文 (男性)『人事興信録』第4版 [大正4(1915)年1月]
  3. ^ 華族細川利永妻宇津錫子之肖像『華族醜聞細川家事件 : 一名・幽斎血の涙. 第2編 』横田甲子三郎 編 (横田甲子三郎, 1894)
  4. ^ 熊本県士族。
  5. ^ 名はなみこ、1866年生まれ
  6. ^ a b 細川利文 (男性)『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]

注釈

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  1. ^ 初名は玉島。最初は利永の側室。後に本妻となる。[2][3]
  2. ^ 利文の妹は明治天皇の側室・園祥子。利文は学習院東京専門学校に学び、明治天皇の皇女・常宮と周宮の御用掛を経て、御歌所參候を務めた[6]。その長男は細川利寿(1890-1946)、次男・利功(1896年生まれ)は子爵・長岡護美の死跡を相続し、長岡護孝と改名した[6]

外部リンク

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日本の爵位
先代
叙爵
子爵
(高瀬)細川家初代
1884年 - 1901年
次代
細川利文