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秦石竹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

秦 石竹(はた の いわたけ、生没年不詳)は、奈良時代後期の官人。秦足国の子。名は伊波太気とも記される[1][2]は伊美吉(忌寸)。官位従五位下播磨介秦足長の父。

経歴

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万葉集』によると、天平感宝元年5月9日(749年5月29日)に「諸僚」(越中国府の役人)が当時、越中少目であった石竹の館で宴を行い、主人である石竹が百合の花縵3枚を作り、豆器(高杯)に重ね載せ、賓客に贈呈しており、その際にその花縵を題材として、越中守であった大伴家持越中介であった内蔵縄麻呂が合わせて3首の歌を詠んでいる[3]。同年(天平勝宝元年)12月頃、同じく少目の石竹の館の宴にて、家持が詠んだ歌が1首見える[4]。翌天平勝宝2年10月16日(750年11月19日)に、朝集使として都に向かう石竹への餞別として、国守の家持が贈った歌も存在する[5]

称徳朝天平宝字8年(764年)10月、藤原仲麻呂の乱後の論功で、弓削耳高田部男足秦智麻呂内蔵若人美努奥麻呂大原家主津真麻呂雀部兄子丈部不破麻呂建部人上桑原足床らとともに正六位上から従五位下に叙せられている[1]

その後しばらく記録が途絶えるが、光仁朝宝亀年間(770年 - 780年)には飛騨守播磨守大伴潔足播磨介と、同じく地方行政に携わっている。

官歴

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注記のないものは『続日本紀』による。

脚注

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  1. ^ a b 『続日本紀』巻第二十五、廃帝 淳仁天皇 天平宝字8年10月7日条
  2. ^ 『続日本紀』巻第三十三、光仁天皇 宝亀5年3月5日条
  3. ^ 『万葉集』巻第十八、4086番 - 4088番
  4. ^ 『万葉集』巻第十八、4135番
  5. ^ 『万葉集』巻第十九、4225番

参考文献

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