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美努奥麻呂

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

美努 奥麻呂(みの の おきまろ、生没年不詳)は、奈良時代中・後期の官人。のち一時的に宿禰官位従五位上造東大寺司判官

出自

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三野氏(美努氏)は、もと県主で、天武天皇13年(684年)に姓を賜っている[1]。氏の名前は『古事記崇神天皇段に見える「河内之美努村」より来ており、『新撰姓氏録』河内国神別に、角凝魂命の4世の子孫の「天湯川田奈命之後也」とある。

経歴

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称徳朝天平宝字8年(764年)10月、藤原仲麻呂の乱後の論功で正六位上から従五位下に叙せられている。天平神護3年(767年)2月には従五位上に出世している。

史書では以上だが、その造東大寺司の官人としての記録は『正倉院文書』に残されている。孝謙朝天平勝宝2年(750年)3月3日付造東大寺司案に「主典従八位下」とある[2]。以後、天平宝字8年正月16日付奉写御執経所請経文の時点まで、造東大寺司主典を務めたことが分かっており、この間に正六位上まで昇叙している[3]。同年3月4日付造東大寺司写本検注文案以後、「造東大寺判官」[4]と見え、仲麻呂の乱後の同年の10月14日付造東大寺司牒に、「判官外従五位下」と見える[5]神護景雲2年(768年)3月30日付造東大寺司案まで「造東大寺司判官」と見える。同年4月29日付奉写一切経司移以後は「造東大寺司大判官」とあり[6]、奉写一切経所別当を兼任している。以後、宝亀3年(772年)12月に私銭3貫文を借りたという記録[7]まで『正倉院文書』に頻出する。

この間、神護景雲4年(770年)の奉写一切経料紙墨納帳によると、5月13日に「大判官美努宿禰奥麻呂」[8]、8月7日・9日・11日に「別当大判官美努宿禰」[9]、9月3日・17日に「別当大判官美努連」[10]、9月22日に「別当大判官美努宿禰」[11]、9月23日に「別当大判官美努連」[12]、9月29日に「別当大判官外従五位上美努連」[13]、10月2日に「別当大判官美努連」[14]とあり、一時的に「宿禰」姓になり、同年9月に「連」姓にもどされたことが分かっている。『続紀』神護景雲4年4月には、弓削耳高・美努財刀自らに宿禰姓が授けられたが、道鏡の失脚により元の姓にもどされたとあり[15]、このこととも関連性があると考えられている[16][17]

造東大寺司としては、寺田の検定に関与しており、天平神護2年(766年)10月21日付越前国司にも「造寺司判官、外従五位下」としてその名前が見え[18][19]、また足羽郡糞置庄田図にも同様に見える[20]。同足羽郡道守庄田図にも同じように現れている[21]

官歴

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注記のないものは『続日本紀』による。

脚注

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  1. ^ 『日本書紀』巻第二十九、天武天皇下 13年正月17日条
  2. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 76頁・177頁
  3. ^ 『大日本古文書』巻五 - 468頁
  4. ^ 『大日本古文書』巻十六 - 484頁
  5. ^ 『大日本古文書』巻五 - 497頁
  6. ^ 『大日本古文書』巻五 - 695頁
  7. ^ 『大日本古文書』巻十九 - 118頁
  8. ^ 『大日本古文書』巻六 - 3頁
  9. ^ 『大日本古文書』巻六 - 12頁・52頁・12頁
  10. ^ 『大日本古文書』巻六 -44頁・54頁
  11. ^ 『大日本古文書』巻六 - 12頁
  12. ^ 『大日本古文書』巻六 - 44頁
  13. ^ 『大日本古文書』巻六 - 85頁・107頁
  14. ^ 『大日本古文書』巻六 - 4頁
  15. ^ 『続日本紀』巻第三十、称徳天皇 神護景雲4年4月11日条
  16. ^ 岩波書店『続日本紀』4補注25 - 九九
  17. ^ 岩波書店『続日本紀』5補注30 - 三三
  18. ^ 『寧楽遺文』下巻689頁
  19. ^ 『東南院文書』巻二 - 244頁
  20. ^ 『寧楽遺文』下巻721頁
  21. ^ 正倉院蔵東大寺開田図
  22. ^ 『大日本古文書』巻十一 - 80頁
  23. ^ 『大日本古文書』巻四 - 51頁・巻十三 - 16頁・17頁
  24. ^ 『大日本古文書』巻十三 - 225頁
  25. ^ 『大日本古文書』巻五 - 126頁
  26. ^ 『大日本古文書』巻五 - 128頁

参考文献

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関連項目

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