コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

秋山雅之介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
秋山雅之介

秋山 雅之介(あきやま まさのすけ、慶応2年1月23日1866年3月9日) - 昭和12年(1937年4月11日[1])は、日本官僚法政大学学長

経歴

[編集]

広島藩足軽秋山恂一の長男として生まれる[2]1890年明治23年)、東京帝国大学法科大学英法科を卒業[2]外務省に入り、イギリス公使館やロシア公使館で書記官として勤務した[3]。しかし病により官を辞した後は、国際法を研究し法学博士の称号を得た[4]

和仏法律学校明治法律学校で講師を務めていたが、日露戦争の直前に陸軍省参事官に任命され[5]、さらに法制局参事官も兼ねた[6]。国際法の顧問として尽力したのが寺内正毅陸軍大臣に認められ、後に朝鮮総督となった寺内の招きで朝鮮総督府参事官に就任した[4]。朝鮮総督府では司法部長官中枢院書記官長事務取扱などを歴任した。1917年より青島守備軍民政長官に就任した[7]

1922年に青島守備軍が廃止された後は、法政大学の理事に就任し、1931年からは学長となった。また帝国女子専門学校(現在の相模女子大学)理事長も兼ねた[2]。墓所は青山霊園

栄典

[編集]
位階
勲章等
外国勲章佩用允許

親族

[編集]

脚注

[編集]
  1. ^ 秋山 雅之介』 - コトバンク
  2. ^ a b c 『人事興信録』
  3. ^ 『官報』第3309号、明治27年7月11日
  4. ^ a b 『広島県百人物評論』p74-76
  5. ^ 『官報』第6152号、明治37年1月7日
  6. ^ 『官報』第6359号、明治37年9月8日
  7. ^ 『官報』第1551号、大正6年10月2日
  8. ^ 『官報』第2776号「叙任及辞令」1892年9月27日。
  9. ^ 『官報』第3142号「叙任及辞令」1893年12月18日。
  10. ^ 『官報』第1397号「叙任及辞令」1917年3月31日。
  11. ^ 『官報』第3223号「叙任及辞令」1923年5月1日。
  12. ^ 『官報』第5848号「叙任及辞令」1902年12月29日。
  13. ^ 『官報』第7098号・付録「叙任及辞令」1907年3月1日。
  14. ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
  15. ^ 『官報』第3243号「叙任及辞令」1894年4月25日。
  16. ^ 秦郁彦 編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年、63頁「小泉六一」。

参考文献

[編集]
  • 秋山雅之介伝記編纂会 『秋山雅之介伝』 1941年。
  • 『人事興信録 十版(上)』人事興信所、1934年。 
  • 手島益雄『広島県百人物評論』日本電報通信社名古屋支局、1915年。 
  • 法政大学 『法政大学八十年史』 1961年。

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]