福田悌夫
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福田悌夫 ふくだ やすお | |
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生年月日 | 1895年12月4日 |
出生地 |
日本 山口県都濃郡福川村 (現山口県周南市) |
没年月日 | 1966年8月28日(70歳没) |
出身校 |
東京帝国大学法学部政治学科卒業 (現東京大学法学部) |
前職 | 都濃郡教育会長 |
所属政党 | 立憲民政党 |
親族 | 養父・福田民平(衆議院議員) |
選挙区 | 山口県第2選挙区 |
当選回数 | 1回 |
在任期間 | 1937年 - 1942年4月29日 |
福田 悌夫(ふくだ やすお、1895年(明治28年)12月4日[1][注釈 1] - 1966年(昭和41年)8月28日[2])は、大正から昭和期の地主[3][4]、農業経営者、著述家、教育者、実業家、政治家。衆議院議員、山口県都濃郡福川町長。
経歴
[編集]山口県[2]都濃郡福川村(福川町(第1次)[5][4]、徳山市、福川町(第2次)、南陽町、新南陽市を経て現周南市)で福田秀夫の五男として生まれ[3][4]、素封家[6]福田民平の養子となる[3][4]。1920年(大正9年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業した[2][3][4][5][7]。
農業を営む[2]。著述業にも従事し、雑誌『新思潮』を経営[2][5][7]。その後、徳山実業実践学校講師、徳山商業学校教諭を務めた[2][4][5][7]。政治家道源権治の後継者と目され[6]、都濃郡農会長、同教育会長の後任に推薦されて就任[6]。その他、都濃郡青年団長、同女子青年団長、同連合婦人会長、福川町教育会長、同農会長、山口県農会議員、塩業組合中央会副会長、柏工業社長なども務めた[2][4][5][7]。
1937年(昭和12年)4月、第20回衆議院議員総選挙(山口県第2区、立憲民政党公認)では道源権治が顧問を務めて当選し[4]、翼賛議員同盟に所属して衆議院議員に1期在任した[2][5]。この間、民政党院内幹事なども務めた[7]。また、1937年5月から福川町長[2][3][4][5][6][7]、同消防組頭にも在任した[6]。
国政選挙歴
[編集]- 第19回衆議院議員総選挙(山口県第2区、1936年2月、中立)次点落選[10]
- 第20回衆議院議員総選挙(山口県第2区、1937年4月、立憲民政党公認)当選[11]
- 第21回衆議院議員総選挙(山口県第2区、1942年4月、翼賛政治体制協議会推薦)次点落選[12]
著作
[編集]- 『公民講義』白銀日新堂本店、1937年。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『大衆人事録 第13版 中国・四国・九州篇』山口26頁では11月4日。
出典
[編集]- ^ 衆議院『第七十一回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1937年、26頁。
- ^ a b c d e f g h i 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』549頁。
- ^ a b c d e 『人事興信録 第14版 下』フ29頁。
- ^ a b c d e f g h i 『大衆人事録 第13版 中国・四国・九州篇』山口26頁。
- ^ a b c d e f g 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』388頁。
- ^ a b c d e 『徳山地方の人物を語る』179-182頁。
- ^ a b c d e f 『戦時下の政局を繞る人々』40頁。
- ^ 総理庁官房監査課 編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、65頁。NDLJP:1276156。
- ^ 『朝日新聞』1951年6月19日朝刊1面
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第19回』471頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第20回』467頁。
- ^ 『衆議院議員総選挙一覧 第21回』461頁。
参考文献
[編集]- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第19回』衆議院事務局、1936年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第20回』衆議院事務局、1937年。
- 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第21回』衆議院事務局、1943年。
- 角屋謹一 『戦時下の政局を繞る人々 : 昭和政治家評論』角屋謹一 、1938年。
- 吉田理『徳山地方の人物を語る』春風荘書房、1939年。
- 『総選挙衆議院議員略歴 第1回乃至第20回』衆議院事務局、1940年。
- 帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第13版 中国・四国・九州篇』帝国秘密探偵社、1940年。
- 人事興信所編『人事興信録 第14版 下』人事興信所、1943年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。