神納照美
神納 照美 (じんのう てるみ、1899年(明治32年)8月4日 - 1987年(昭和62年)9月14日)は、トロンボーン奏者、指揮者であり、日本吹奏楽指導者協会会長、日本国民音楽振興財団(現日本音楽財団)副会長、東海吹奏楽連盟理事長、中部日本吹奏楽連盟理事長、全日本吹奏楽連盟副理事長を務めた。
経歴
[編集]明治32年(1899年)、愛知県東加茂郡(現豊田市)に生まれる。大正8年(1919年) 陸軍戸山学校を卒業し、軍楽隊で活動する。大正13年(1924年)に愛知に戻り、大正14年(1925年)から名古屋市役所社会教育課に勤務しながら、市青年音楽隊の組織、音楽協会やボーイスカウト連盟の創立等の文化事業に貢献する。昭和4年(1929年)から東邦商業学校(現東邦高等学校)の教師となり、吹奏楽部を創設する。昭和9年(1934年)アマチュアブラスバンド東海連盟(現 東海吹奏楽連盟)を設立し、昭和10年(1935年) 日本で初めての吹奏楽コンクールとなる「吹奏樂競演會」を開催する。昭和14年(1939年)から朝日新聞名古屋本社に勤務する。昭和15年(1940年)11月23日 第1回全日本吹奏樂競演會 紀元二千六百年奉祝 集團音楽大行進並大競演會(現全日本吹奏楽コンクール)では、審査委員を務める。昭和17年(1942年)11月23日 第3回大会 大日本吹奏樂大會[注 1]では、東邦商業学校(現東邦高等学校)の指揮者を務め、吹奏楽 学生部で同校を第1位に導く[3]。昭和29年(1954年)11月14日 全日本吹奏楽連盟を設立し、副理事長に就任する。昭和31年(1956年) 中部日本吹奏楽連盟を設立し、理事長に就任する。昭和36年(1961年) 中部吹奏楽指導者協会を設立する。昭和45年(1970年)から昭和50年(1975年)まで日本吹奏楽指導者協会(JBA)第4代会長、昭和49年(1974年)3月から昭和62年(1987年)9月まで日本国民音楽振興財団(現日本音楽財団)副会長[4]等の要職を務め、日本の吹奏楽の発展に寄与した。昭和63年(1988年)、死去。
主な受賞
[編集]エピソード
[編集]神納は昭和11年(1936年)に結成されたプロ野球チームの名古屋軍(現在の中日ドラゴンズ)公式応援団結成に当たり同年3月19日に発表された「名古屋軍応援歌」(作詞:古田昴生)の作曲者と推定されている[5]。戦後の改題を経て現行使用され続けている「阪神タイガースの歌」(作詞:佐藤惣之助、作曲:古関裕而)は同年3月25日発表であり「名古屋軍応援歌」の方が1週間ほど早く発表されたため、日本野球機構(NPB)の現存12球団で最古の楽曲とされるものの、楽譜は散逸しており歌詞しか伝わっていない[5]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 関門トンネル開通記念
出典
[編集]- ^ 牟田久壽『JBA 日本吹奏楽指導者協会 50年史』(初)日本吹奏楽指導者協会、2016年6月18日、13頁。
- ^ 神納 照美 - コトバンク - 新撰 芸能人物事典 明治~平成
- ^ 秋山紀夫『吹奏楽「昭和の資料集」~吹奏楽の歩み: 初期から成熟期にかけて~』(初)ロケットミュージック、2022年、13-16頁。ISBN 978-4-86679-882-0。
- ^ 財団25年の歩み 71頁 (PDF) - 日本音楽財団
- ^ a b 鶴田真也 (2024年3月30日). “「♪投げよ剛球 打てよ堅棒〜」88年前、中日の前身『名古屋軍』に幻の球団公式歌が存在した【企画・NAGOYA発】”. 中日スポーツ (中日新聞社) 2024年5月9日閲覧。
参考文献
[編集]- 牟田久壽「JBA創立50周年にあたって 公益社団法人 日本吹奏楽指導者協会 名誉会長 秋山紀夫」『JBA 日本吹奏楽指導者協会 50年史』、日本吹奏楽指導者協会、2016年6月18日、13頁。