石丸定政
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時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代 |
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生誕 | 天正4年(1576年) |
死没 | 正保2年10月6日(1645年11月24日) |
別名 | 六兵衛、身西(法名) |
墓所 | 松岳院(神奈川県横浜市青葉区) |
主君 | 徳川秀忠→徳川家康 |
氏族 | 石丸氏 |
父母 | 父:石丸有定 |
兄弟 | 正次、定政、有行、有吉 |
妻 | 間宮信之の娘 |
子 | 石丸定次、石丸定盛、娘(河村重次妻) |
石丸 定政 (いしまる さだまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武士、旗本。
略歴
[編集]慶長2年(1597年)、徳川家康に初めて拝謁し、翌慶長3年(1598年)に家督を継承して徳川秀忠に仕える。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに供奉した後、大番となり、大坂夏の陣では牧野信成に従って、首級を得た。その後、大番頭となって240石を加増され、武蔵国都筑郡・上野国那波郡・上総国望陀郡・下総国相馬郡において740石を領した。元和6年(1620年)3月18日には目付として今村正長と共に出羽国最上に赴いた。寛永10年(1633年)には500石を加増され、1240石を領する。正保2年(1645年)6月23日に職を辞し、同年10月6日に70歳で死去[1]。
脚注
[編集]- ^ 寛政重修諸家譜 巻第三百八十六
参考文献
[編集]- 寛政重修諸家譜 第2輯(巻第三百八十六)(1923年、国民図書)p.1191