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石丸定政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
石丸 定政
時代 安土桃山時代 - 江戸時代
生誕 天正4年(1576年
死没 正保2年10月6日1645年11月24日
別名 六兵衛、身西(法名)
墓所 松岳院(神奈川県横浜市青葉区
主君 徳川秀忠徳川家康
氏族 石丸氏
父母 父:石丸有定
兄弟 正次定政、有行、有吉
間宮信之の娘
石丸定次石丸定盛、娘(河村重次妻)
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石丸 定政 (いしまる さだまさ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武士旗本

略歴

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慶長2年(1597年)、徳川家康に初めて拝謁し、翌慶長3年(1598年)に家督を継承して徳川秀忠に仕える。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに供奉した後、大番となり、大坂夏の陣では牧野信成に従って、首級を得た。その後、大番頭となって240石を加増され、武蔵国都筑郡上野国那波郡上総国望陀郡下総国相馬郡において740石を領した。元和6年(1620年)3月18日には目付として今村正長と共に出羽国最上に赴いた。寛永10年(1633年)には500石を加増され、1240石を領する。正保2年(1645年)6月23日に職を辞し、同年10月6日に70歳で死去[1]

脚注

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  1. ^ 寛政重修諸家譜 巻第三百八十六

参考文献

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