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千葉国造

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
知波国造から転送)
千葉国造
本姓 大私部氏
主な根拠地 千葉国
(のちの下総国
著名な人物 #人物を参照
凡例 / Category:日本の氏族

千葉国造(ちはのくにみやつこ・ちはこくぞう)は、千葉国を支配した国造

概要

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祖先

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氏族

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大私部氏(おおきさいべうじ、)。

大私部氏は、『新撰姓氏録』右京皇別下には「大私部、開化天皇の皇子、彦坐命の後なり。」とあり、飯田武郷が「私字をキサイとよめる由は、『漢書』の張放伝に大官私官とある下の服虔が註に、私官は皇后の官と見え、また『後漢書』百官志に、中宮私府令一人とも見えたり。私字を后の称に用たる、漢国の例に拠りたる書さまとぞ見えたる。かくて私部をキサイベと唱うは、中昔よりの音便にして、雅しくはキサキベと唱うべきなり。(中略)敏達天皇よりも前の御世に、后の奉為に定置れたりし部に大私部の氏を賜いたりしなるべく、敏達天皇の御世に置かれたる私部はそれとは別なるべし。」と述べたように[1]、6世紀以前に太后の為に設けられた伴部として伝えられ、その性格は私部御名代部御子代部日祀部などと同じく、皇室直轄の部民であった[2][3]

概要

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千葉国造が置かれた時期は、『記紀』にも『先代旧事本紀』「国造本紀」にも記載されず、『日本後紀』延暦24年(805年)癸卯条や、翌大同元年(806年)癸巳条に「千葉国造大私部直善人」の名前が見えるのみである。これによれば、大私部直善人が外従五位下を賜ったのは平安時代初期のことで、大化改新が行われてから161年にもなるから、国造の制度は既に廃止されている。そして全国には中央から国司が派遣され、土着の豪族の多くは郡司以下に任ぜられ、堂々たる律令国家となっていて、既に中央集権的国家体制は確立していた。そこで千葉国造は、「『先代旧事本紀』「国造本紀」の成立過程には存在せず、律令制施行以後に任命されたいわゆる律令国造である」とする見解と、「改新前の千葉国造が、改新以後もそのまま国造の称号を公許され、その家柄にふさわしい直の姓を継承したと」する見解に分かれる[2][3]

前者の見解によれば、改新前の房総は総の国と呼ばれ、その北半部には、印旛沼周辺に本拠を置く印波国造と、現利根川下流一帯に君臨する下海上国造とがあったが、改新後の地方行政区画によって下総国となり、印波国造の領土は、後に『延喜式』や『和名抄』などに記録される印旛郡埴生郡千葉郡葛飾郡相馬郡猿島郡結城郡岡田郡の8郡に分けられ、下海上国造の領土は、海上郡匝瑳郡香取郡の3郡となった。そして印波国造の後裔は印旛郡の郡司に、下海上国造の後裔は海上郡の郡司に任ぜられ、新設の千葉郡からは千葉国造が選任されたとする。『続日本紀天応元年(781年)条に「下総国印旛郡大領外正六位上丈部直牛養」、『万葉集』巻二〇に「印波郡丈部直大麻呂」とあり、『日本三代実録仁和元年(885年)3月19日の条に、「下総国海上郡大領外正六位上海上国造他田日奉直春岳」、『万葉集』巻二〇に「海上郡海上国造他田日奉直得大理」の名が見えるのは、このような家柄の人々であると考えられる[2][3]

しかしながら、大化前代の国造の称号は、前述の「海上国造他田日奉直春岳」、「海上国造他田日奉直得大理」や『続日本紀神亀元年正月条の「出雲国造外従七位下出雲臣広嶋」・天平14年4月条の「伊豆国造日下部直益人」などのように、国造制が廃止された後も、神事祭祀を主宰する旧国造の家柄に対して、姓と共に賜わったと見るのが妥当であるから、大化前代に千葉国造が存在していたことが可能となり、印波、下海上両国造の任命が応神天皇朝にあることなどから、千葉国造のそれも右と大体同時代にあるものとすることができる。即ち、この頃になって、房総北半部の有力氏族が続々大和朝廷の勢力下に服属し、それらのうちの最有力な首長が国造に任ぜられたと考えられる[2][3]。そのため、千葉国造が改めてヤマト王権に屈服したのは、印波、上海上の国造(6世紀後半)や伊甚国造(6世紀前半)と同じく、敏達天皇の時代を大きく遡らない時代であったと考えられる[2][3]

本拠

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支配領域

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国造の支配領域は千葉国と呼ばれた地域、後の下総国千葉郡、現在の千葉県千葉市に相当する。

先代旧事本紀』「国造本紀」に記載はないが、後の『日本後紀延暦24年(805年)10月8日条には、千葉国造大私部直善人従五位下を授けるとあり、翌大同元年(806年)1月28日条では下総国大掾に任じられている。『日本後紀』の他には千葉国造の名は見らない。

千葉の名の由来としては、「多くの葉が繁茂する」の意で、たくさんの草木が生い茂る原野だったからとも、土地の繁栄を願ったからとも説かれる。

人物

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氏神

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不明。

関連神社

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脚注

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  1. ^ 飯田武郷『日本書紀通釈』(1899年)
  2. ^ a b c d e 千葉市史編纂会議『千葉市史』(千葉市、1974年)
  3. ^ a b c d e https://adeac.jp/chiba-city/text-list/d100010/ht002370

参考文献

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外部リンク

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