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真鍋儀十

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
眞鍋儀十から転送)
真鍋 儀十まなべ ぎじゅう
生年月日 1891年9月16日
出生地 長崎県壱岐郡箱崎村(現:壱岐市
没年月日 (1982-04-29) 1982年4月29日(90歳没)
死没地 東京都江東区
出身校 長崎師範学校
明治大学法学部(中退)
所属政党憲政会→)
立憲民政党→)
翼賛政治会→)
日本進歩党→)
(無所属→)
改進党→)
日本民主党→)
自由民主党

選挙区 東京都第6区
当選回数 1回
在任期間 1955年2月27日 - 1958年9月9日

選挙区 東京府第4区
当選回数 5回
在任期間 1930年2月20日 - 1945年12月18日
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真鍋 儀十(まなべ ぎじゅう、1891年明治24年)9月16日[1] - 1982年昭和57年)4月29日)は日本政治家俳人、文学研究家。松尾芭蕉の研究家として知られ、そのコレクションは江東区芭蕉記念館に寄付された。高浜虚子に師事、「ホトトギス」同人。俳号は蟻十。

経歴

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長崎県壱岐郡箱崎村(現壱岐市芦辺町)生まれ。長崎師範学校(現・長崎大学教育学部)を卒業後明治大学法学部に入学し、雄弁部に所属する[2]。在学中から普選運動にかかわり、1920年大正9年)1月18日の学生普選促進大会(日比谷公園)で検挙された[3]

明大中退後憲政会に入党。六十数回の拘禁を受けながら1930年(昭和5年)旧東京4区から立憲民政党公認で第17回衆議院議員総選挙に立候補し初当選[4]、戦前は通算5回の当選を果たす。政党解消後の翼賛選挙では翼賛政治体制協議会の推薦候補として当選[5]。戦後は日本進歩党の結党に参加するものの公職追放される。

追放解除後は改進党公認で1952年(昭和27年)の第25回衆議院議員総選挙[6]とその翌年の第26回衆議院議員総選挙東京都第6区から出馬して落選するが[7]1955年(昭和30年)の第27回衆議院議員総選挙では日本民主党公認で当選し政界に返り咲く[8]。民主党内では大麻唯男宮沢胤勇野田武夫小泉純也浜野清吾山本粂吉中村庸一郎ら旧民政党系右派の政治家が結集した大麻派に属し、保守合同ののち内閣売春対策審議委員となる。大麻の死後、他の大麻派のメンバーとともに岸派に合流。1957年(昭和32年)10月30日東京地検特捜部売春汚職事件の容疑者として逮捕される。翌1958年(昭和33年)9月9日東京地裁で有罪の判決。1958年(昭和33年)の第28回衆議院議員総選挙[9]1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙にも無所属で立候補するが落選[10]1962年第6回参議院議員通常選挙全国区から無所属で立候補したが落選[11]、政界から引退した。

一方、戦後自宅の庭で幼稚園経営を始める。園の前には銅像が建ち、そこには「撞球純正スポーツ化の父」との岸信介による揮毫がある。これは1955年(昭和30年)にビリヤードを風俗営業法適用対象外とし、健全なスポーツへ転化することに尽力した功績を讃えたものである。なお、生地壱岐市芦辺町瀬戸浦の少弐公園にも銅像がある。

脚注

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  1. ^ 衆議院『第七十一回帝国議会衆議院議員名簿』〈衆議院公報附録〉、1937年、2頁。
  2. ^ 明治大学百年史編纂委員会 『明治大学百年史』 第三巻 通史編Ⅰ、学校法人明治大学、1992年、781頁
  3. ^ 『明治大学百年史』 第三巻 通史編Ⅰ、783-784頁
  4. ^ 第17回衆議院議員選挙 東京4区 - 選挙ドットコム - イチニ株式会社が運営するサイト・選挙ドットコム内のページ。
  5. ^ 第21回衆議院議員選挙 東京4区 - 選挙ドットコム - 同上。
  6. ^ 第25回衆議院議員選挙 東京6区 - 選挙ドットコム - 同上。
  7. ^ 第26回衆議院議員選挙 東京6区 - 選挙ドットコム - 同上。
  8. ^ 第27回衆議院議員選挙 東京6区 - 選挙ドットコム - 同上。
  9. ^ 第28回衆議院議員選挙 東京6区 - 選挙ドットコム - 同上。
  10. ^ 第29回衆議院議員選挙 東京6区 - 選挙ドットコム - 同上。
  11. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』549頁。

外部リンク

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