皆川康夫
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 静岡県浜松市 |
生年月日 | 1947年11月3日 |
没年月日 | 2022年12月19日(75歳没) |
身長 体重 |
176 cm 73 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1970年 ドラフト5位 |
初出場 | 1971年4月11日 |
最終出場 | 1977年5月18日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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皆川 康夫(みながわ やすお、1947年11月3日 - 2022年12月19日)は、静岡県浜松市出身のプロ野球選手(投手)。
父は元プロ野球選手の皆川定之。
経歴
[編集]浜松日体高卒業後は1966年に中央大学へ進学したが、1勝も出来ず、1年下のエース・杉田久雄の影に隠れていた。大学同期に萩原康弘、長井繁夫、末永正昭がいる。
大学卒業後の1970年に富士重工業へ入社し、素質が開花。同年は産別対抗で活躍すると、都市対抗には日立製作所の補強選手として出場し、東海理化との1回戦でリリーフ登板。中央球界では全くの無名であったが、ドラフト5位で東映フライヤーズへ入団し[注 1]、富士重工出身初のプロ野球選手となる。
1971年には、4月11日、開幕3戦目の西鉄戦(平和台)で初登板初勝利を飾る。得意のシュートで内角を突く強気のピッチングで、同月下旬から先発陣に入り、オールスターまでに10勝をマーク。オールスターにも出場したが[1]、後半戦は登板過多から坐骨神経痛となり、1勝に止まる。シーズンでは11勝14敗、防御率3.44の成績でパ・リーグの新人王を獲得[2]。その後は肩痛に苦しむ。
1973年には一軍出場ゼロに終わったが、チェンジアップ気味のカーブが鋭い本格派から技巧派転身でリリーフ専門として復活。
1974年には後半戦だけで4勝を挙げた。
1975年には抑えに回って8勝10セーブを挙げる。当時「ビーバー(ちゃん)」という愛称があった[3]。
1977年に鵜飼克雄、新美敏、内田順三と共に、佐伯和司、宮本幸信、久保俊巳との4対3の交換トレードで広島東洋カープへ移籍。
1979年限りで現役を引退。
引退後は故郷・浜松へ戻り、中区(現中央区)田町で「すなっく みな川」を経営していた[4][5]。
詳細情報
[編集]年度別投手成績
[編集]年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
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1971 | 東映 日本ハム |
46 | 24 | 8 | 3 | 1 | 11 | 14 | -- | -- | .440 | 948 | 230.1 | 227 | 22 | 55 | 7 | 14 | 96 | 3 | 1 | 97 | 88 | 3.44 | 1.22 |
1972 | 22 | 4 | 0 | 0 | 0 | 1 | 3 | -- | -- | .250 | 202 | 47.1 | 45 | 6 | 19 | 0 | 2 | 18 | 1 | 0 | 26 | 24 | 4.60 | 1.35 | |
1974 | 31 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 3 | 1 | -- | .571 | 208 | 51.1 | 48 | 2 | 19 | 5 | 0 | 28 | 0 | 0 | 21 | 20 | 3.53 | 1.31 | |
1975 | 49 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 6 | 10 | -- | .571 | 356 | 85.2 | 68 | 9 | 35 | 8 | 5 | 39 | 0 | 0 | 27 | 21 | 2.20 | 1.20 | |
1976 | 21 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 1 | -- | .500 | 190 | 45.0 | 47 | 5 | 16 | 1 | 3 | 23 | 1 | 0 | 23 | 23 | 4.60 | 1.40 | |
1977 | 広島 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 31 | 6.2 | 12 | 1 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 3 | 3 | 3.86 | 1.95 |
通算:6年 | 173 | 29 | 8 | 3 | 1 | 26 | 28 | 12 | -- | .481 | 1935 | 466.1 | 447 | 45 | 145 | 21 | 24 | 206 | 5 | 1 | 197 | 179 | 3.46 | 1.27 |
- 各年度の太字はリーグ最高
- 東映(東映フライヤーズ)は、1973年に日拓(日拓ホームフライヤーズ)に、1974年に日本ハム(日本ハムファイターズ)に球団名を変更
表彰
[編集]- 新人王 (1971年)
記録
[編集]- 初記録
- 初登板:1971年4月11日、対西鉄ライオンズ2回戦(平和台野球場) 9回裏に救援登板
- 初勝利:1971年4月11日、対西鉄ライオンズ3回戦(平和台野球場) 5回裏に救援登板、被安打7、奪三振4、自責点2
- その他の記録
- オールスターゲーム出場:1回 (1971年)
背番号
[編集]- 27 (1971年 - 1976年)
- 17 (1977年 - 1979年)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 1971年度オールスター・ゲーム 試合結果
- ^ 年度別成績 1971年 パシフィック・リーグ
- ^ よみがえる1970年代のプロ野球 別冊ベースボール Part8 1971年編(ベースボール・マガジン社、2022年9月刊)p.88
- ^ すなっくみな川 - 第一通り/バー・お酒(その他) | 食べログ
- ^ “OB達のセカンドフィールド” (PDF). vol.59- プロ野球OBクラブ P9 (2013年). 2022年12月26日閲覧。
- ^ 『静岡新聞』2022年12月24日付朝刊、第30面。