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菊姫 (上杉景勝正室)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
甲斐御前から転送)

菊姫(きくひめ、永禄元年(1558年) - 慶長9年2月16日1604年3月16日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。武田信玄の五女[1]。母は油川夫人上杉景勝正室。別名に阿菊御料人甲斐御前。院号は大儀院。実子なし。

生涯

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永禄元年(1558年)、武田信玄の五女として生まれる。母は武田一族・油川氏の出自である油川夫人。同母の兄弟姉妹に仁科盛信葛山信貞松姫[2]

天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで兄の武田勝頼織田信長に敗れて以降、勝頼は外交関係の再建に着手する。天正6年(1578年)、越後国上杉謙信が死去すると、家督を巡り上杉景虎上杉景勝の間で御館の乱が発生し、勝頼は後北条氏の要請で景虎支援のため越後へ出兵する。勝頼は景勝の和睦要請に応じて、景虎と景勝の和睦を調停して越後から撤兵するが、勝頼撤兵中に景虎・景勝間の和睦は破綻し、景勝が乱を制する。

これにより後北条氏は武田氏との甲相同盟を解消し、武田氏と後北条氏は敵対関係に入る。勝頼は上杉氏との同盟を強化し、甲越同盟の締結が行なわれた天正7年(1579年)に、菊姫は両家の同盟の証として上杉景勝に嫁いだ。『甲陽軍鑑』によれば、景勝と婚約が成立する以前に長島一向宗願証寺の僧と婚約していたとされる。嫁入りの際、兄の勝頼が菊姫を心配して在府の家臣に送った書状があり、また、嫁いだ後も菊姫に奉公する家臣に、菊姫の様子について尋ねており、兄妹仲の良さも窺われる。

嫁いだ後は上杉家中から甲州夫人もしくは甲斐御寮人と呼ばれ、質素倹約を奨励した才色兼備の賢夫人として敬愛され、第2代藩主・定勝(景勝の庶長子)を始めとする後世の歴代藩主たちも謙信時代は争っていた武田家を丁重に扱ったといわれる[3]

天正17年(1589年)9月、豊臣秀吉小田原征伐に際し、1万石以上の知行を持つ諸大名たちの妻女を3年間在京させることを命令した。菊姫も同年12月、夫の景勝と共に上洛し[4]、以後、京都伏見の上杉邸で死去するまで人質としての生涯を送った。上杉家は慶長3年(1598年)に越後国から陸奥会津120万石へ転封となったが、菊姫は会津や関ヶ原の戦いでの敗北によって上杉家が移封された米沢に入ることはなかった。在京後は、諸大名、公家衆の妻女たちと音信や贈答を通して交流をはかっていたことが窺え[5]、天正18年(1590年)6月には、当時の准三宮勧修寺晴子勧修寺晴豊夫妻に三種三荷を進上している(『晴豊記』天正18年6月21日条)。また『妙心寺史』によれば、兄勝頼を手厚く弔った妙心寺の南化玄興に深く帰依していたという。後に菊姫死去の際には、南化の法弟海山元珠が導師を勤めている。文禄4年(1595年)9月、景勝が伏見に屋敷を賜ると伏見邸に移った。伏見邸へは、直江兼続正室のお船の方もともに移ったという[6]

慶長8年(1603年)冬より病床に伏し、翌9年(1604年)2月16日に上杉家の伏見屋敷で死去[7]享年47。菊姫死去の報を聞いた景勝や上杉家の家臣たちの哀惜の有様について、『上杉家御年譜』には「悲歎カキリナシ」とある。

法名は大儀院殿梅岩周香大姉。墓所は京都妙心寺亀仙庵(現隣華院)。後年米沢林泉寺にも墓碑が建立された。

人物・逸話

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  • 勧修寺晴豊は景勝と朝廷との取次を務め、装束の着付けを指南するなど、公家衆の仲でも特に交流が深かった。菊姫上洛後の『晴豊記』は天正18年、19年および文禄3年正月、7月、10月しか現存していないが、菊姫も晴豊夫妻とは贈答を通して親しく交流していたことが窺える。天正19年1月、晴豊から茶会に招かれた景勝一行は、茶会の後、大酒となり、酔い潰れるものが出るほどであった。その後、景勝は何度か晴豊を茶会に招くも、晴豊は体調不良を理由に断っていたが、翌月には菊姫が晴豊の妻に鮒を50匹贈らせたこともあった(『晴豊記』天正19年2月10日条)。
  • 景勝との関係については、江戸中期に成立した軍記物奥羽永慶軍記』などの影響により、景勝の男色嗜好と女性嫌悪により両者の夫婦関係自体が非常に疎遠であったと[8]する説もあるが、景勝の男色嗜好ならびに女性嫌悪を実証する一次史料自体存在せず、また両者の夫婦仲をはっきりと実証できる同時代的史料が現在のところ認められないため、実際のところは不明な点が多い。ただし残された記録などから判断する限り、景勝は菊姫に対して正室としての一定の敬意や配慮を行っていると見られ、彼女に対する好意や敬意は終生抱いていたものと思われる。
  • 慶長8年(1603年)、豊臣秀頼千姫との婚儀に際し上洛した景勝は、そのまま翌慶長9年(1604年)8月21日に帰国の途につくまで伏見に滞在しているが、この間の2月に、米沢から駆けつけた義弟武田信清と共に菊姫の死を看取ることとなったと思われる[9]。『上杉家御年譜』には、菊姫の看病のため、信清が急ぎ上洛したこと[10]、景勝が菊姫の病気平癒のため神社仏閣への祈願を行ったり、名医を招いたりしたことや、菊姫の死に際して悲しんだ有様についての記述がある[11]
  • 歌舞伎の『本朝廿四孝』のヒロイン「八重垣姫」は菊姫がモデルとされる。
  • 米沢の郷土史には上杉定勝が菊姫の息子(即ち武田信玄の外孫)だという説もあるが、定勝が生まれたのは菊姫が逝去した後であり、時期的に無理がある。

脚注

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  1. ^ 信玄の六女説もある。また、生年は永禄6年(1563年)説もある。
  2. ^ 信玄の三女真理姫の母を油川夫人とする説もある。この説が正しければ真理姫とも同母姉妹ということになる。
  3. ^ 武田氏滅亡時に菊姫の縁を頼って上杉家に逃れてきた信玄の七男(六男説もある)で菊姫の異母弟・武田信清とその子孫は、上杉藩主親族の高家衆筆頭として優遇され、幕末まで続いている。また、真理姫の孫にあたるという上松頼母義次も、母が信玄の外孫であるとして母ともども上杉家に召抱えられている(『上杉家御年譜』より)。
  4. ^ 『上越市史 通史編2 中世』489頁
  5. ^ 『上越市史 通史編2 中世』500頁
  6. ^ 「西村由緒記」は菊姫は文禄4年(1595年)、兼続正室のお船の方とともに越後から伏見邸に入ったとする(『米沢市史 第二巻 近世編1』190頁)。西村家は京都出身といわれる米沢藩の御用商人。西村家の伝承には、お船の方が関ヶ原の戦いの際に米沢に逃げ帰ったことや、景勝側室の四辻氏は四辻家の家臣の娘とするものもあるが、『米沢市史』は「西村由緒記」は全面的に信用ができるとは言い難いとしている(『米沢市史 第二巻 近世1』485頁)。
  7. ^ 歴史作家楠戸義昭が米沢の郷土史家の説に基づき、菊姫の死因を自殺であると自身の著書などで紹介し、また菊姫の死を扱った小説や一部の解説書なども菊姫自殺説や菊姫憤死説を採用しているが、この説には実際には研究者の言及もなく、またその根拠とされる史料についても不明な点が多く、これを史実と見なすにははなはだ信憑性に欠ける。「人物・逸話」の章を参照。
  8. ^ 出典;『直江兼続 戦国史上最強のナンバー2』外川淳著 株式会社アスキー・メディアワークス刊(2008年11月10日、アスキー新書)ISBN 4048674773 ただし当時は衆道(男色)は一般的であり、男色を好んだ大名でも妻や側室との間に子を残している(例えば菊姫自身の父武田信玄も小姓と関係を持ちながら正室や側室たちとの間に多数の子を残している)ことなどからも解るように、少なくとも当時においては夫の男色嗜好と夫婦関係の親疎の間には関連性は無い。 なお、『奥羽永慶軍記』は景勝は男色嗜好かつ女性嫌悪であると明記しているが、信憑性は極めて疑わしい。詳細は上杉景勝の項参照。
  9. ^ この景勝の伏見滞在中に景勝の側室四辻氏は、慶長9年5月に米沢で一子玉丸(定勝)を出産したが産後の肥立ちが悪く、3ヵ月余り後(同年8月17日)に景勝の伏見出立を待たずに死亡した。
  10. ^ 米沢武田氏系図や、『歴代古案』・『上杉編年文書』直江兼続書状にも、菊姫の重病が伝えられ、上洛したとの記述がある。
  11. ^ 「公(景勝)ヲ始メ奉リ、諸士ニ至ルマテ悲歎カキリナシ」。また、米沢林泉寺に菊姫の墓碑が建立された時期は景勝の存命中であるとする説もあるが、これを立証する一次史料やこれに準ずる史料は無く、根拠は全く無い。

参考文献

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  • 竹内理三編 増補 続史料大成『晴右記・晴豊記』(臨川書店、1978年)
  • 川上狐山著・荻須純道補述『増補 妙心寺史』(思文閣、1975年)
  • 上越市史編さん委員会編『上越市史 通史編2 中世』(上越市、2004年)
  • 丸島和洋編『武田信玄の子供たち』(宮帯出版社、2022年)

関連人物

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関連作品

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書籍
小説
テレビドラマ
漫画