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田沼意尊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
田沼 意尊
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政2年(1819年
死没 明治2年12月24日1870年1月25日
改名 金弥(幼名)、意尊
墓所 東京都豊島区駒込勝林寺
官位 従五位下玄蕃頭
幕府 江戸幕府 若年寄
主君 徳川家慶家定家茂慶喜明治天皇
遠江相良藩主→上総小久保藩
氏族 田沼氏
父母 田沼意留
兄弟 意尊久留島通容正室
久留島通嘉
智恵、路
意斉忠千代
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田沼 意尊(たぬま おきたか)は、江戸時代後期の大名明治時代初期の華族

田沼意次の曽孫で遠江国相良藩主、上総国小久保藩初代藩主、同藩初代知藩事。幕末に江戸幕府の若年寄を務めた。官位従五位下玄蕃頭

略歴

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田沼意留の子として誕生した。天保11年(1840年)7月20日、22歳で家督を相続する。大坂定番を務めた。文久元年(1861年)9月14日、43歳で若年寄に就任する。

元治元年(1864年)、幕府軍総督として水戸藩浪士による天狗党の乱の鎮圧に努め、天狗党退去後には筑波山を占領しているが、部田野の戦いでは敗北した。なお、乱の鎮圧に必要な軍資金の調達に奔走した家老の井上寛司が、借金を返済できなかったために切腹するという出来事があった。翌元治2年(1865年)、越前国敦賀で降伏をした武田耕雲斎らを処刑した。

慶応2年(1866年)10月4日、若年寄を解任された。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いに幕府軍として参陣した。直後の2月に駿地方では最も遅く勤王証書を提出した。

明治元年(1868年)9月21日に上総小久保へ移封され、明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により知藩事となった。洋学を取り入れた近代的な藩校創設に尽力した。同年12月24日、51歳で死去した。

系譜

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父母

正室

子女

養子

脚注

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