生源寺順
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しょうげんじ かず 生源寺 順 | |
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生誕 |
梅辻 順 1887年3月15日 |
死没 | 1966年12月13日(79歳没) |
国籍 | 日本 |
プロジェクト:人物伝 |
生源寺 順(しょうげんじ かず、明治20年〈1887年〉3月15日 - 昭和41年〈1966年〉12月13日)は、大正時代から昭和時代にかけて活躍した日本の工学者。
生涯
[編集]明治20年(1887年)3月15日、梅辻操の次男として生まれた[1]。出身は静岡とも東京ともされる[注釈 1]。明治35年(1902年)、おばに当たる生源寺伊佐雄の養子となった[1]。
明治44年(1911年)、東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。大正2年(1913年)、九州帝国大学工科大学助教授。大正4年(1915年)から7年(1918年)にかけてアメリカに留学し、帰国後九州帝国大学教授となった。昭和8年(1933年)、同工学部長に就任し、3年間務めた。
昭和14年(1939年)4月1日に名古屋帝国大学が創設、翌年に理工学部が設置され、同年4月1日に学部長に就任した[2]。昭和18年から27年まで名古屋航空研究所の所長を務めた。
昭和24年(1949年)5月17日に名古屋大学総長の田村春吉が死去すると、同日より、その後任が勝沼精蔵に定まる7月11日まで、総長事務取扱を務めた[* 1]。8月20日、工学部長を辞した[3]。
昭和30年(1955年)、名古屋大学を定年退職し、名誉教授となった。その後愛知工業大学教授となった。
昭和37年(1962年)10月8日、社団法人計測自動制御学会名誉会員に推薦された[* 2]。
系譜
[編集]『人事興信録』第8版, p. シ93および美崎大洋 2019, p. 2を参照。
著作
[編集]単著
[編集]- 『水力學』工業雑誌社、1925年6月。
- 『水タービン』養賢堂、1931年3月。
- 『水車』岩波書店、1934年12月。
- 『渦巻ポンプ講義』養賢堂、1943年1月。
論文
[編集]- 「ヴエンチュリメーターの係數に就て」『機械學會誌』第18巻第37号、1915年3月、39-50頁。
- 「鎖の重量を考へたる場合の鎖せみの効率」『機械學會誌』第23巻第61号、1920年11月、9-24頁。
- 「軸方向と横方向との力を受くる均一強さの長柱」『機械學會誌』第24巻第63号、1921年3月、13-27頁。
- 「走行體の縱の安定に就きて」『機械學會誌』第24巻第66号、1922年5月、1-17頁。
- 「齒車の齒を矩形斷面の Cantilever Beam として強さを考ふる場合」『機械學會誌』第24巻第66号、1922年5月、19-29頁。
- 「Size, weight and horse power of aeroplanes.」『機械學會誌』第24巻第70号、1921年10月、45-79頁。
- 「On the Approximate Equation for an Eccentrically Loaded Column.」『機械學會誌』第26巻第76号、1922年11月、27-31頁。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ コトバンクの『20世紀日本人名事典』では出生地を東京としており、同『日本人名大辞典+Plus』では静岡県出身としている。
出典
[編集]- ^ a b 美崎大洋 2019, p. 2.
- ^ 名古屋大学大学院工学研究科・工学部総務課 2024, p. 5, 23.
- ^ 名古屋大学大学院工学研究科・工学部総務課 2024, p. 5.
ウェブサイト出典
[編集]参考文献
[編集]- 『人事興信録』人事興信所編(8版)、人事興信所、1928年。
- 美崎大洋「嘉納家と我孫子の関係は60年:治五郎死後、別荘は自宅だった」『我孫子市史研究センター会報』第206号、2019年4月26日、2-3頁。
- 名古屋大学大学院工学研究科・工学部総務課『名古屋大学大学院工学研究科・名古屋大学工学部概要』2024年度版、2024年 。