王鈍
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王 鈍(おう どん、生没年不詳)は、元末明初の官僚。字は士魯。本貫は開封府太康県。
生涯
[編集]元のとき、進士に及第した[1]。元末に猗氏県尹となった。洪武年間、南京に召し出されて礼部主事に任じられた。福建参政として出向し、清廉謹慎で知られた。麓川の思倫発を説得する使者として派遣されたが、その贈物を受け取ろうとしなかった。ある人が「受け取らなければ遠人の疑惑を招く恐れがあります」と忠告したため、王鈍は贈物を受け取った。雲南まで帰ると、贈物を官庫に運び入れた。洪武23年(1390年)、浙江左布政使に転じた。浙江にあること10年、その名は張紞と並び称された。
洪武31年(1398年)12月、王鈍は建文帝に召し出されて戸部尚書となった。建文4年(1402年)6月、燕王朱棣が南京に入ると、王鈍は城壁を越えて逃走したが、巡邏の兵に捕らえられた。朱棣の命により戸部尚書の官にとどめられた。7月、張紞とともに罷免された。ほどなく工部尚書厳震直らとともに山西・河南・陝西・山東を分巡し、さらに新昌伯唐雲とともに北平の屯田を経理するよう命じられた。永楽元年(1403年)6月、三事を上疏して、いずれも永楽帝(朱棣)に聞き入れられた[2]。永楽2年(1404年)4月、浙江左布政使として致仕した。帰郷し、鬱々として死去した。著書に『野荘集』6巻[3]があった。
子に王瀹があった。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『明史』巻151 列伝第39