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王瀹

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王 瀹(おう よう、洪武10年(1377年)- 景泰元年1月13日1450年1月26日))は、明代官僚は子清。本貫開封府太康県

生涯

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王鈍の子として生まれた。永楽4年(1406年)、進士に及第した。翰林院庶吉士に任じられ、文淵殿に入って『永楽大典』の編纂に参加した[1]。永楽7年(1409年)、左春坊左司直郎に任じられた[2]洪熙帝のとき、鄭王府左長史として出向し、たびたび礼をもって鄭王朱瞻埈を諫めた。『荀子』成相篇をまねて、十二章の文章を編集して鄭王に献上したが、王に合わず顧みられなかった。入朝して戸部郎中に転じた。宣徳10年(1435年)、英宗が即位すると、王瀹は戸部右侍郎に抜擢された。正統元年(1436年)、浙江巡撫として出向した[3]。母が死去したが、喪中に復帰を命じられ、入朝して戸部の事務に留められた。正統6年(1441年)3月、致仕した[4]

景泰元年正月己丑(1450年1月26日)、死去した[5]。享年は74。著書に『退翁集』6巻[6]があった。

脚注

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  1. ^ 孫奇逢『中州人物考』巻4
  2. ^ 談遷国榷』巻14
  3. ^ 『国榷』巻23
  4. ^ 『国榷』巻25
  5. ^ 『国榷』巻29
  6. ^ 黄虞稷『千頃堂書目』巻19

参考文献

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  • 明史』巻151 列伝第39