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「鳥栖親子3人殺害事件」の版間の差分

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'''佐賀隣人一家殺人事件'''(さがりんじんいっかさつじんじけん)とは[[1983年]]([[昭和]]58年)[[5月16日]]に[[佐賀県]][[鳥栖市]]で起きた[[殺人]][[事件]]である。犯人と隣人との間の[[トラブル]]から起きた事件である。
'''佐賀隣人一家殺人事件'''(さがりんじんいっかさつじんじけん)とは[[1983年]]([[昭和]]58年)[[5月16日]]に[[佐賀県]][[鳥栖市]]水屋町で発生した[[殺人罪 (日本)|殺人]][[事件]]である<ref>『[[読売新聞]]』1983年5月17日東京朝刊第14版第一社会面23頁「【鳥栖】佐賀 隣人の親子三人刺殺 ささいな口論から」([[読売新聞東京本社]])</ref><ref name="朝日新聞19830517">『[[朝日新聞]]』1983年5月17日西部朝刊第14版第一総合面1頁「鳥栖 向かいの一家3人刺殺 不仲続きの男逮捕」([[朝日新聞西部本社]])</ref>。犯人の男Oが隣家の親子3人を出刃包丁で刺殺した<ref name="朝日新聞19870312"/>。犯人と隣人との間の[[トラブル]]から起きた事件である。


== 概要 ==
== 概要 ==
[[犯人]]は製缶会社従業員の男O(当時38歳)で、被害者はOの隣に住んでいた会社員の男性A1(当時38歳)と妻A2(同36歳)、長男A3(同13歳:[[鳥栖市立基里中学校|市立基里中学校]]2年生)の親子3人で、事件当時近くのそろばん塾に出かけていたため難を逃れた長女A4(当時9歳:[[鳥栖市立基里小学校|市立基里小学校]]4年生)を加えた4人家族だった<ref name="朝日新聞19830517"/>。現場は鳥栖市の南東部で、福岡県久留米市との県境まで500&nbsp;[[メートル|m]]の水田地帯(国道3号から100&nbsp;m東に入った住宅地)にあり<ref name="朝日新聞19830517"/>。、O宅とA1宅は事件当時、道路を挟んで50&nbsp;mしか離れていなかった<ref>『朝日新聞』1983年5月17日西部朝刊第14版第一社会面17頁「鳥栖の三人殺し 犯行の動機、平然と 「子のいたずらが我慢しきらんじゃった」」(朝日新聞西部本社)</ref>。
[[犯人]]のA(時38歳)は自宅の[[水道]][[ホース]]の金具が無くなったことについて隣人のB(当時38歳)の長男(当時12歳)によるものと思い込み、Bの家に怒鳴り込みに行った。しかし、Bは身に覚えが無いと言ったことから口論となり、激怒したAは一度自分の家に戻り[[包丁]]を隠し持って再びBの家に行き、電話中だったBを包丁で殺害し、さらに、Bの妻(当時36歳)も同時に殺害した。Bの長男は逃げ出したもののAは包丁を持ちながらBの長男を追いかけ、捕まえると同様に包丁で殺害した。


Oは事件日、自宅の[[水道]][[ホース]]の金具が無くなったことについて隣人の男性A1の長男(当時12歳)によるものと思い込み、A1の家に怒鳴り込みに行った。しかし、A1は身に覚えが無いと言ったことから口論となり、激怒したOは一度自分の家に戻り[[包丁]]を隠し持って再びA1の家に行き、電話中だったBを包丁で殺害し、さらに、A1の妻(当時36歳)も同時に殺害した。A1の長男は逃げ出したもののAは包丁を持ちながらA1の長男を追いかけ、捕まえると同様に包丁で殺害した。Oは犯行から約30分後、近隣住民の通報で駆けつけた[[鳥栖警察署]]員に殺人の[[現行犯]]で[[逮捕 (日本法)|逮捕]]された<ref name="朝日新聞19830517"/>
Aは犯行の2日前に水道のホースの金具(金額としては200円程度のもの)がなくなっていることに気付き、会社を休んで近所に聞き込みに回った。その聞き込みから、金具の紛失は以前に自分が所有する[[トラクター]]に[[悪戯]]をしたBの長男によるものと思い込み犯行に至った。Aは普段から近所との付き合いも無く、また以前に[[精神科|精神科医]]への通院歴があった<ref name=佐賀83516”>『佐賀新聞』1983年5月16日1頁「鳥栖で親子3人刺殺 近所のトラブルから凶行 犯人その場で逮捕」</ref><ref name=”佐賀87313”>『佐賀新聞』1987年3月13日1頁「鳥栖の親子3人殺し A被告に死刑判決 佐賀地裁 心神喪失ではない」</ref>。


Oは犯行の2日前に水道のホースの金具(金額としては200円程度のもの)がなくなっていることに気付き、会社を休んで近所に聞き込みに回った。その聞き込みから、金具の紛失は以前に自分が所有する[[トラクター]]に[[悪戯]]をしたA1の長男によるものと思い込み犯行に至った。Oは普段から近所との付き合いも無く、また以前に[[精神科|精神科医]]への通院歴があった<ref name="佐賀83516”>『佐賀新聞』1983年5月16日1頁「鳥栖で親子3人刺殺 近所のトラブルから凶行 犯人その場で逮捕」</ref><ref name="佐賀新聞19870313"/>。
== 判 ==
[[1987年]]([[昭和]]62年)[[3月12日]]、[[佐賀地方裁判所|佐賀地裁]]はAに[[日本における死刑|死刑]][[判決 (日本法)|判決]]を言い渡した<ref name=”佐賀87313”>『佐賀新聞』1987年3月13日1頁「鳥栖の親子3人殺し A被告に死刑判決 佐賀地裁 心神喪失ではない」</ref>。


== 刑事裁判 ==
これに対して[[弁護人|弁護]]側は[[精神障害]]があったと[[控訴]]したが、[[1989年]]([[平成]]元年)[[10月24日]]、[[福岡高等裁判所|福岡高裁]]はこの控訴を[[棄却]]した<ref name=”佐賀891025”>『佐賀新聞』1989年10月25日21頁「A二審も死刑 酌量の余地なし 福岡高裁」</ref>。
[[佐賀地方裁判所|佐賀地裁]]への[[起訴]]前および、佐賀地裁での[[審級|第一審]]の[[公判]]中に、[[被告人]]Oの[[責任能力]]の有無程度をめぐって3回の[[精神鑑定]]が実施された<ref name="朝日新聞19870312"/>。1回目(起訴前)の精神鑑定を実施した武市昌士([[佐賀医科大学]]教授)は「犯行時の精神状態に異常は認められない」とする鑑定書を提出していたが、公判中に弁護人の申請を受けて2度目の精神鑑定を実施した池田暉親([[宮崎医科大学]]教授)は「Oは犯行時、精神分裂病の症状が悪化する増悪期にあたり、物事の善悪を判断する理非弁別能力はほとんどなかったか、少なくとも著しく障害されていた」とする鑑定書を1984年(昭和59年)8月に提出した<ref name="朝日新聞19870312"/>。検察官からの鑑定申請を受け、[[風祭元]]([[帝京大学]]医学部教授)による3回目の精神鑑定が実施され、風祭は1986年(昭和61年)6月に「Oは妄想性人格障害者だが、精神分裂病だったとは考えられず、犯行当時、軽度精神薄弱者相応の理非弁別能力があった」という鑑定書を提出、検察官は武市・風祭の両鑑定書をもとにOには完全責任能力があったとして[[日本における死刑|死刑]]を[[求刑]]した一方、弁護人は池田鑑定書をもとに、Oは犯行時心神喪失状態にあったとして無罪を主張していた<ref name="朝日新聞19870312"/>。


[[1987年]]([[昭和]]62年)[[3月12日]]、佐賀地裁(早船嘉一裁判長)は検察官の求刑通り、Oに死刑[[判決 (日本法)|判決]]を言い渡した<ref name="朝日新聞19870312">『朝日新聞』1987年3月12日西部夕刊第4版第一社会面7頁「親子3人殺しに死刑 向かいの男 精神の異常認めず 佐賀地裁判決」「「殺人のない世の中に」一人残された中1○○(A1の長女の実名)さん」(朝日新聞西部本社)</ref><ref name="佐賀新聞19870313">『佐賀新聞』1987年3月13日1頁「鳥栖の親子3人殺し O被告に死刑判決 佐賀地裁 心神喪失ではない」</ref>。佐賀地裁は、Oを「特有の固執性を持つ異常性格者」と評した上で。知能の低い者の劇情による犯行であり、心神喪失も心神耗弱も認められないとして、Oが完全責任能力を有していたと認め、犯行の残忍性・Oに改悛の情がない点などから極刑をもって臨むしかないと結論付けた<ref name="朝日新聞19870312"/>。弁護人は判決を不服として同日中に[[控訴]]した<ref name="朝日新聞19870312"/>。
[[1995年]]([[平成]]7年)[[4月21日]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]はAの[[上告]]を棄却して死刑が確定<ref>「57人の死刑囚」 大塚公子 [[角川書店]] 225頁</ref><ref name=”佐賀95422”>『佐賀新聞』1995年4月22日25頁「鳥栖の一家殺害 A被告の死刑確定 最高裁判決」</ref>。


[[1989年]]([[平成]]元年)10月24日、[[福岡高等裁判所|福岡高裁]]第1刑事部(丸山明裁判長)は弁護人の控訴を[[棄却#日本法|棄却]]する判決を言い渡した<ref name="朝日新聞19891024">『朝日新聞』1989年10月24日西部夕刊第4版第一社会面7頁「O、二審も死刑 鳥栖の隣家3人殺し「責任能力ある」 福岡高裁」(朝日新聞西部本社)</ref><ref name="佐賀新聞19891025”>『佐賀新聞』1989年10月25日21頁「O二審も死刑 酌量の余地なし 福岡高裁」</ref>。福岡高裁は池田鑑定について、妄想・体感異常などの典型症状を一般よりも拡張解釈しており信用できないとした上で、Oは軽度の精神障害者に匹敵する是非弁別能力を有しており、自作調書の任意性・信用性も認められると評し、Oに改悛の情がないことや結果の重大性などから死刑はやむを得ないと結論付けた<ref name="朝日新聞19891024"/>。
[[2000年]]([[平成]]12年)[[11月30日]]、死刑執行。[[享年]]55。

Oは[[上告]]し、弁護人は上告審で死刑違憲論も主張したが、[[1995年]]([[平成]]7年)4月21日に[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]第二[[小法廷]]([[中島敏次郎]]裁判長)はO側の上告を棄却する判決を言い渡したため、死刑が[[確定判決|確定]]した<ref>『57人の死刑囚』 [[大塚公子]] [[角川書店]] 225頁</ref><ref name="朝日新聞19950422">『朝日新聞』1995年4月22日西部朝刊第14版第一社会面29頁「鳥栖の3人殺害 被告の死刑確定」(朝日新聞西部本社)</ref><ref>『[[読売新聞]]』1995年4月22日東京朝刊第二社会面30頁「佐賀・鳥栖の親子3人殺し 死刑判決確定へ 最高裁が上告棄却」([[読売新聞東京本社]])</ref><ref name="佐賀19950422”>『佐賀新聞』1995年4月22日25頁「鳥栖の一家殺害 A被告の死刑確定 最高裁判決」</ref>。

== 死刑執行 ==
かくして[[日本における死刑囚|死刑確定者(死刑囚)]]となったOは[[2000年]]([[平成]]12年)[[11月30日]]に[[福岡拘置所]]で[[日本における被死刑執行者の一覧|死刑を執行された]](55歳没)<ref name="読売新聞20001130">『読売新聞』2000年11月30日東京夕刊一面1頁「3人に死刑執行 8人連続殺人の勝田死刑囚ら/法務省」(読売新聞東京本社)</ref>。同日には[[名古屋拘置所]]でも、1972年から10年間で8人を相次いで殺害するなどした[[勝田清孝事件|勝田清孝]]ら2人の死刑確定者に対する刑が執行されている<ref name="読売新聞20001130"/>。死刑執行は1999年(平成11年)12月17日以来で<ref name="毎日新聞20001130"/>、[[保岡興治]]が[[法務大臣]]に就任して以降では初であった<ref>『朝日新聞』2000年11月30日東京夕刊第一総合面1頁「勝田死刑囚ら3人に刑執行 名古屋・福岡で 昨年12月以来」(朝日新聞東京本社)</ref>。また福岡拘置所での死刑執行は1999年12月以来だった<ref name="毎日新聞20001130西部">『毎日新聞』2000年11月30日西部夕刊社会面「佐賀・鳥栖の親子3人刺殺 O死刑囚「支援者」ら怒り――「誤った判決で刑執行」」([[毎日新聞西部本社]]【荒木俊雄】)</ref>。当時は国会開催中の死刑執行は回避されていたが、この死刑執行は国会閉会(12月1日)を翌日に控える中での死刑執行だった<ref name="毎日新聞20001130">『毎日新聞』2000年11月30日東京夕刊一面1頁「8人殺害の勝田清孝死刑囚ら、3人に死刑執行――昨年12月以来」(毎日新聞東京本社)</ref>。

Oと拘置所で面会していた市民団体「死刑廃止・タンポポの会」会員の山崎博之は、通常は国会閉会中に執行される死刑が開会中に執行されたことについて「内側に死刑制度を存続させようとする強い意思があるものと受け止める。国による殺人が強行されることに強い怒りを感じる」と話したほか、控訴審判決の直前にOと面会した際、Oから「拘置所の食事に石が入っている」などと訴えられていたとして<ref name="毎日新聞20001130西部"/>、Oの精神状態に関する検討が不十分であったと死刑執行を批判している<ref>『朝日新聞』2000年11月30日西部夕刊第一社会面9頁「被害者「今も恐怖」 勝田死刑囚、刑執行 O死刑囚支援の団体「精神状態を無視」」(朝日新聞西部本社)</ref>。


== 脚注 ==
== 脚注 ==

2024年1月31日 (水) 13:15時点における版

佐賀隣人一家殺人事件(さがりんじんいっかさつじんじけん)とは1983年昭和58年)5月16日佐賀県鳥栖市水屋町で発生した殺人事件である[1][2]。犯人の男Oが隣家の親子3人を出刃包丁で刺殺した[3]。犯人と隣人との間のトラブルから起きた事件である。

概要

犯人は製缶会社従業員の男O(当時38歳)で、被害者はOの隣に住んでいた会社員の男性A1(当時38歳)と妻A2(同36歳)、長男A3(同13歳:市立基里中学校2年生)の親子3人で、事件当時近くのそろばん塾に出かけていたため難を逃れた長女A4(当時9歳:市立基里小学校4年生)を加えた4人家族だった[2]。現場は鳥栖市の南東部で、福岡県久留米市との県境まで500 mの水田地帯(国道3号から100 m東に入った住宅地)にあり[2]。、O宅とA1宅は事件当時、道路を挟んで50 mしか離れていなかった[4]

Oは事件当日、自宅の水道ホースの金具が無くなったことについて隣人の男性A1の長男(当時12歳)によるものと思い込み、A1の家に怒鳴り込みに行った。しかし、A1は身に覚えが無いと言ったことから口論となり、激怒したOは一度自分の家に戻り包丁を隠し持って再びA1の家に行き、電話中だったBを包丁で殺害し、さらに、A1の妻(当時36歳)も同時に殺害した。A1の長男は逃げ出したもののAは包丁を持ちながらA1の長男を追いかけ、捕まえると同様に包丁で殺害した。Oは犯行から約30分後、近隣住民の通報で駆けつけた鳥栖警察署員に殺人の現行犯逮捕された[2]

Oは犯行の2日前に水道のホースの金具(金額としては200円程度のもの)がなくなっていることに気付き、会社を休んで近所に聞き込みに回った。その聞き込みから、金具の紛失は以前に自分が所有するトラクター悪戯をしたA1の長男によるものと思い込み犯行に至った。Oは普段から近所との付き合いも無く、また以前に精神科医への通院歴があった[5][6]

刑事裁判

佐賀地裁への起訴前および、佐賀地裁での第一審公判中に、被告人Oの責任能力の有無程度をめぐって3回の精神鑑定が実施された[3]。1回目(起訴前)の精神鑑定を実施した武市昌士(佐賀医科大学教授)は「犯行時の精神状態に異常は認められない」とする鑑定書を提出していたが、公判中に弁護人の申請を受けて2度目の精神鑑定を実施した池田暉親(宮崎医科大学教授)は「Oは犯行時、精神分裂病の症状が悪化する増悪期にあたり、物事の善悪を判断する理非弁別能力はほとんどなかったか、少なくとも著しく障害されていた」とする鑑定書を1984年(昭和59年)8月に提出した[3]。検察官からの鑑定申請を受け、風祭元帝京大学医学部教授)による3回目の精神鑑定が実施され、風祭は1986年(昭和61年)6月に「Oは妄想性人格障害者だが、精神分裂病だったとは考えられず、犯行当時、軽度精神薄弱者相応の理非弁別能力があった」という鑑定書を提出、検察官は武市・風祭の両鑑定書をもとにOには完全責任能力があったとして死刑求刑した一方、弁護人は池田鑑定書をもとに、Oは犯行時心神喪失状態にあったとして無罪を主張していた[3]

1987年昭和62年)3月12日、佐賀地裁(早船嘉一裁判長)は検察官の求刑通り、Oに死刑判決を言い渡した[3][6]。佐賀地裁は、Oを「特有の固執性を持つ異常性格者」と評した上で。知能の低い者の劇情による犯行であり、心神喪失も心神耗弱も認められないとして、Oが完全責任能力を有していたと認め、犯行の残忍性・Oに改悛の情がない点などから極刑をもって臨むしかないと結論付けた[3]。弁護人は判決を不服として同日中に控訴した[3]

1989年平成元年)10月24日、福岡高裁第1刑事部(丸山明裁判長)は弁護人の控訴を棄却する判決を言い渡した[7][8]。福岡高裁は池田鑑定について、妄想・体感異常などの典型症状を一般よりも拡張解釈しており信用できないとした上で、Oは軽度の精神障害者に匹敵する是非弁別能力を有しており、自作調書の任意性・信用性も認められると評し、Oに改悛の情がないことや結果の重大性などから死刑はやむを得ないと結論付けた[7]

Oは上告し、弁護人は上告審で死刑違憲論も主張したが、1995年平成7年)4月21日に最高裁第二小法廷中島敏次郎裁判長)はO側の上告を棄却する判決を言い渡したため、死刑が確定した[9][10][11][12]

死刑執行

かくして死刑確定者(死刑囚)となったOは2000年平成12年)11月30日福岡拘置所死刑を執行された(55歳没)[13]。同日には名古屋拘置所でも、1972年から10年間で8人を相次いで殺害するなどした勝田清孝ら2人の死刑確定者に対する刑が執行されている[13]。死刑執行は1999年(平成11年)12月17日以来で[14]保岡興治法務大臣に就任して以降では初であった[15]。また福岡拘置所での死刑執行は1999年12月以来だった[16]。当時は国会開催中の死刑執行は回避されていたが、この死刑執行は国会閉会(12月1日)を翌日に控える中での死刑執行だった[14]

Oと拘置所で面会していた市民団体「死刑廃止・タンポポの会」会員の山崎博之は、通常は国会閉会中に執行される死刑が開会中に執行されたことについて「内側に死刑制度を存続させようとする強い意思があるものと受け止める。国による殺人が強行されることに強い怒りを感じる」と話したほか、控訴審判決の直前にOと面会した際、Oから「拘置所の食事に石が入っている」などと訴えられていたとして[16]、Oの精神状態に関する検討が不十分であったと死刑執行を批判している[17]

脚注

  1. ^ 読売新聞』1983年5月17日東京朝刊第14版第一社会面23頁「【鳥栖】佐賀 隣人の親子三人刺殺 ささいな口論から」(読売新聞東京本社
  2. ^ a b c d 朝日新聞』1983年5月17日西部朝刊第14版第一総合面1頁「鳥栖 向かいの一家3人刺殺 不仲続きの男逮捕」(朝日新聞西部本社
  3. ^ a b c d e f g 『朝日新聞』1987年3月12日西部夕刊第4版第一社会面7頁「親子3人殺しに死刑 向かいの男 精神の異常認めず 佐賀地裁判決」「「殺人のない世の中に」一人残された中1○○(A1の長女の実名)さん」(朝日新聞西部本社)
  4. ^ 『朝日新聞』1983年5月17日西部朝刊第14版第一社会面17頁「鳥栖の三人殺し 犯行の動機、平然と 「子のいたずらが我慢しきらんじゃった」」(朝日新聞西部本社)
  5. ^ 『佐賀新聞』1983年5月16日1頁「鳥栖で親子3人刺殺 近所のトラブルから凶行 犯人その場で逮捕」
  6. ^ a b 『佐賀新聞』1987年3月13日1頁「鳥栖の親子3人殺し O被告に死刑判決 佐賀地裁 心神喪失ではない」
  7. ^ a b 『朝日新聞』1989年10月24日西部夕刊第4版第一社会面7頁「O、二審も死刑 鳥栖の隣家3人殺し「責任能力ある」 福岡高裁」(朝日新聞西部本社)
  8. ^ 『佐賀新聞』1989年10月25日21頁「O二審も死刑 酌量の余地なし 福岡高裁」
  9. ^ 『57人の死刑囚』 大塚公子 角川書店 225頁
  10. ^ 『朝日新聞』1995年4月22日西部朝刊第14版第一社会面29頁「鳥栖の3人殺害 被告の死刑確定」(朝日新聞西部本社)
  11. ^ 読売新聞』1995年4月22日東京朝刊第二社会面30頁「佐賀・鳥栖の親子3人殺し 死刑判決確定へ 最高裁が上告棄却」(読売新聞東京本社
  12. ^ 『佐賀新聞』1995年4月22日25頁「鳥栖の一家殺害 A被告の死刑確定 最高裁判決」
  13. ^ a b 『読売新聞』2000年11月30日東京夕刊一面1頁「3人に死刑執行 8人連続殺人の勝田死刑囚ら/法務省」(読売新聞東京本社)
  14. ^ a b 『毎日新聞』2000年11月30日東京夕刊一面1頁「8人殺害の勝田清孝死刑囚ら、3人に死刑執行――昨年12月以来」(毎日新聞東京本社)
  15. ^ 『朝日新聞』2000年11月30日東京夕刊第一総合面1頁「勝田死刑囚ら3人に刑執行 名古屋・福岡で 昨年12月以来」(朝日新聞東京本社)
  16. ^ a b 『毎日新聞』2000年11月30日西部夕刊社会面「佐賀・鳥栖の親子3人刺殺 O死刑囚「支援者」ら怒り――「誤った判決で刑執行」」(毎日新聞西部本社【荒木俊雄】)
  17. ^ 『朝日新聞』2000年11月30日西部夕刊第一社会面9頁「被害者「今も恐怖」 勝田死刑囚、刑執行 O死刑囚支援の団体「精神状態を無視」」(朝日新聞西部本社)

参考文献

関連項目