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2023年5月28日 (日) 01:53時点における版
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ニキータ・フルシチョフ | |
---|---|
Никита Хрущёв | |
ソビエト連邦共産党 中央委員会第一書記 | |
任期 1953年9月7日 – 1964年10月14日 | |
中央委員会第二書記 | ミハイル・スースロフ アレクセイ・キリチェンコ フロル・コズロフ レオニード・ブレジネフ |
前任者 | ヨシフ・スターリン(書記長) |
後任者 | レオニード・ブレジネフ |
ソビエト連邦 第4代閣僚会議議長 | |
任期 1958年3月27日 – 1964年10月14日 | |
最高会議幹部会議長 | クリメント・ヴォロシーロフ レオニード・ブレジネフ |
前任者 | ニコライ・ブルガーニン |
後任者 | アレクセイ・コスイギン |
ソビエト連邦共産党 モスクワ市党委員会第一書記 | |
任期 1934年1月27日 – 1938年1月27日 1949年12月16日 – 1950年1月25日 | |
中央委員会書記長 | ヨシフ・スターリン |
ウクライナ共産党 第一書記 | |
任期 1938年1月27日 – 1947年3月3日 1947年12月26日 – 1949年12月16日 | |
ソ連共産党書記長 | ヨシフ・スターリン |
ソビエト連邦共産党 第18-22期書記局員 | |
任期 1949年12月16日 – 1964年10月14日 (1953年3月14日 - 9月7日は筆頭書記) | |
ソビエト連邦共産党 第18-22期政治局員・幹部会員 | |
任期 1939年3月22日 – 1964年10月14日 | |
ソビエト連邦共産党 第17期政治局員候補 | |
任期 1938年1月14日 – 1939年3月22日 | |
個人情報 | |
生誕 | 1894年4月17日 ロシア帝国 クルスク県カリノフカ |
死没 | 1971年9月11日(77歳没) ソビエト連邦 ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国 モスクワ |
市民権 | ウクライナ人 |
政党 | ソビエト連邦共産党 |
配偶者 | ニーナ・ペトローヴナ・フルシチョワ(3度目の妻) |
子供 | ユリア・フルシチョワ レオニード・フルシチョフ ラダ・フルシチョワ セルゲイ・フルシチョフ エレナ・フルシチョワ |
出身校 | スターリン記念工業アカデミー |
宗教 | 無神論 |
受賞 | |
署名 | |
兵役経験 | |
所属国 | ソビエト連邦 |
所属組織 | 赤軍 |
軍歴 | 1941年–1945年 |
最終階級 | 中将 |
戦闘 | 第二次世界大戦 |
ソビエト連邦 |
---|
最高指導者 共産党書記長 |
レーニン · スターリン マレンコフ · フルシチョフ ブレジネフ · アンドロポフ チェルネンコ · ゴルバチョフ |
標章 |
ソビエト連邦の国旗 ソビエト連邦の国章 ソビエト連邦の国歌 鎌と槌 |
政治 |
ボリシェヴィキ · メンシェヴィキ ソビエト連邦共産党 ソビエト連邦の憲法· 最高会議 チェーカー · 国家政治保安部 ソ連国家保安委員会 |
軍事 |
赤軍 · ソビエト連邦軍 ソビエト連邦地上軍 · ソビエト連邦海軍 ソビエト連邦空軍 · ソビエト連邦防空軍 戦略ロケット軍 |
場所 |
モスクワ · レニングラード スターリングラード ·クレムリン · 赤の広場 |
イデオロギー |
共産主義 · 社会主義 マルクス・レーニン主義 スターリン主義 |
歴史 |
ロシア革命 ·ロシア内戦 ·大粛清· 独ソ不可侵条約· バルト諸国占領·冬戦争· 独ソ戦 ·冷戦 · 中ソ対立 · キューバ危機 ベトナム戦争 · 中ソ国境紛争 アフガニスタン紛争 · ペレストロイカ ·チェルノブイリ原子力発電所事故·マルタ会談 · 8月クーデター ソビエト連邦の崩壊 |
ニキータ・セルゲーエヴィチ・フルシチョフ(ロシア語: Ники́та Серге́евич Хрущёв、 発音 、ウクライナ語: Мики́та Сергі́йович Хрущо́в、ムィクィータ・セルヒーヨヴィチ・フルシチョーウ、ラテン文字表記の例:Nikita Sergeyevich Khrushchev、1894年4月17日 - 1971年9月11日)は、ソビエト連邦の政治家。ソ連共産党中央委員会第一書記、閣僚会議議長(首相)の職にあって、11年間に渡って同国の最高指導者であった。
概要
1953年9月、第一書記に就任し、失脚する1964年10月まで最高指導者の地位にあった。1956年2月のスターリン批判によってその独裁と恐怖政治を世界に暴露し、非スターリン化を掲げた。在任時にはアメリカ合衆国を中心とする西側陣営と平和共存を図り、軍拡競争を抑制して軍縮と宇宙開発競争を積極的に行った。他方で中華人民共和国・アルバニアと激しく対立し、同年10月のハンガリー動乱に際して軍事介入を行い、キューバに核ミサイルを配備してキューバ危機を招いた。
また、自身が無神論者であった為に宗教に対する弾圧を再び強化した。それでもスターリン時代よりは物流や学術の交流といった点で開放的だったとされている[1]。
生涯
生い立ち
1894年4月17日にロシア帝国のクルスク県カリノフカに誕生する。父親のセルゲイ・フルシチョフは炭坑夫で、母親はクセニアである。母方の祖父は農奴でロシア帝国陸軍に勤務していた。家族と共にウクライナ・ドンバス地方のユゾフカ(スターリノ、現在のドネツィク)に移り、15歳で鉛管工として働き始める。第一次世界大戦では工場で勤務していたため、徴兵を猶予された。
共産党入党
1917年のロシア革命の以前から労働運動に参加したことが切っ掛けとなり、1918年にロシア共産党(ボリシェヴィキ)に入党した。ロシア内戦中の1919年には赤軍政治委員として参加した。1920年にはセミョーン・ブジョーンヌイ元帥の下で勤務し、反革命を標榜した白軍やポーランド軍との戦闘に参加。1921年にユゾフカに戻る。
1925年7月、ユゾフカのペトロフスコ・マリインスク地区党書記に就任し、以後党活動に専従することとなる。ウクライナでのフルシチョフは精力的な仕事ぶりと経験から学んだ実際的な現地事情に関する広範な知識で台頭し、ヨシフ・スターリンの側近であったカガノーヴィチに注目されることになる。1929年にはスターリン記念工業アカデミーに入学を許可されて冶金学を学ぶと共に、大学内でも党活動を熱心に推進して学内の共産党書記に選出される。
中央委員就任
1931年にモスクワ党専従となり、モスクワ地下鉄の建設の功でレーニン勲章を受章した。この功績がスターリンの目に留まり、1934年1月の第17回ソ連共産党大会で中央委員に選出され、翌年の1935年3月にはモスクワ党第一書記となる。1938年4月に政治局員候補となり、スターリンに粛清されたスタニスラフ・コシオールの後任として、ウクライナ共産党第一書記となった。1939年3月、第18回党大会で政治局員に昇格する。
この時期、党中央では大粛清の嵐が吹き荒れていたが、フルシチョフもスターリンを称える演説をし、さらにはウクライナにて大規模な粛清を実行した。1938年だけで10万人以上が逮捕され、大部分が処刑された。当時200人いた中央委員会の役員の中で生き残れたのは、わずか3人であった。
第二次世界大戦
第二次世界大戦では、1941年のナチス・ドイツによる侵攻以降ウクライナ共産党の責任者としてウクライナの産業を東部に疎開させることに尽力する。疎開作業の完了後、陸軍中将と同位の政治委員の階級を授与され、南部戦線でドイツ軍と戦った。
スターリングラード攻防戦では、アンドレイ・エリョーメンコ大将の政治委員となり、1943年のクルスクの戦いでは、ニコライ・ヴァトゥーチン中将の政治委員として直接前線に参加している。
第一書記兼首相
1953年3月5日のスターリンの死後、ラヴレンチー・ベリヤによってゲオルギー・マレンコフが閣僚会議議長(首相)に祭り上げられ、書記局の名簿筆頭にも名を連ねたことにより、暫定的にスターリンの後継者となったが、ベリヤの権力掌握を警戒する指導層の抵抗にあい、マレンコフは書記局の主導権をフルシチョフに譲ることになった。フルシチョフはまずベリヤを逮捕・粛清して権力基盤を固めた後、同年9月7日に共産党党首たる党中央委員会第一書記に就任し、最高指導者と見なされるようになった。次いで1955年2月にマレンコフに首相を辞任させ、後任には腹心のニコライ・ブルガーニンを充てた。
1957年にモロトフ、マレンコフ、カガノーヴィチらがフルシチョフの解任を要求し、中央委員会幹部会の投票でいったんフルシチョフの第一書記からの解任が決まるが、中央委員会総会での投票で逆転勝ちして辛くも第一書記の座に留まった(反党グループ事件)。「反党グループ」の3人は追放されたが、この時フルシチョフを積極的に支持しなかったブルガーニンは程無く首相を辞任させられ、フルシチョフが首相を兼任した。
反党グループ事件のときにフルシチョフを積極的に支持した人物の中に、第二次世界大戦の英雄であるゲオルギー・ジューコフ国防相が居たが、ジューコフは広大なソ連各地から中央委員を集めるのに軍用機まで動員してフルシチョフに協力し、反党グループ追放後は中央委員会幹部会員(政治局員)として迎えられた。しかし軍縮をめぐってすぐにフルシチョフと対立した結果、大臣を解任されて中央委員会からも追放された。
内政
1954年2月19日、ペレヤスラフ協定300周年を記念してソ連の領土内の管轄変更としてクリミア半島をロシア・ソビエト連邦社会主義共和国からウクライナ・ソビエト社会主義共和国に移管させた[2]。ウクライナ融和策の一環やクリミア半島とウクライナ本土との経済的結びつきを重視して実現させたとされる。
フルシチョフは1956年の第20回党大会の秘密報告でいわゆる「スターリン批判」を行い、世界中に衝撃をもたらした。国内政治の民主化の推進や軍縮を進めるとともに、軍事目的やソ連の宣伝も念頭に宇宙開発を推し進め、スプートニクやボストークの打ち上げに成功し、宇宙開発競争においてアメリカを引き離したのもフルシチョフ在任中のことである。また、工業・農業生産でもアメリカをソ連経済は超すと豪語していた。
一方で集団指導体制を無視した独断的な重要政策の決定と農業政策の失敗によりアメリカやカナダから穀物を輸入するようになったこと、海外訪問の際に家族を同行させたこと、娘婿であるアレクセイ・アジュベイを特使として西ドイツに派遣したことなどが、一部から顰蹙を買った。また、フルシチョフは激情家で知られ、同志に対する叱責・暴言を繰り返し、党内に多くの敵を作ったとされ、これが後に失脚に繋がる大きな原因となった。
フルシチョフは無神論者で、「宗教はアヘンなり」とする共産主義の思想に忠実であった。第二次世界大戦中、士気高揚のため部分的に緩和された宗教弾圧が再び厳しさを増し、1960年から1962年の間に教会(特にロシア正教会の聖堂)の約3割を取り壊したと言われている。聖堂の数はその後ペレストロイカ時代に至るまで回復することは無かった。
フルシチョフは無学な労働者階級の出身という出自からか、特に科学技術や芸術に関する政策決定については周囲の人間の考えを鵜呑みにしやすく、その結果フルシチョフに取り入った人間の主張がそのまま国家の政策となることが多々あった。
トロフィム・ルイセンコによる反遺伝学キャンペーン(ルイセンコ論争)はスターリン批判に伴って下火となったものの、ルイセンコ一派は巻き返しを図ってフルシチョフを取り込むことに成功する。フルシチョフは死ぬまでルイセンコの学説を信じ続け、遺伝子の存在を信じず、ピョートル・カピッツァ(ノーベル物理学賞受賞者)、イーゴリ・クルチャトフ(ソ連核開発の父)、息子のセルゲイ・フルシチョフ(ミサイル開発技術者)、娘のラーダ(『ナウカ・イ・ジーズニ(科学と生活)』誌の副編集長)の説得にも耳を貸さなかった[3]。結果としてソ連の農業生産高は大きく落ち込み、アメリカからの穀物輸入に依存する事態に陥った。
芸術家たちとの関係も、政治的に上手く立ち回る芸術家たちに振り回され、有名なマネージ展覧会ホールの事件では、エルンスト・ネイズヴェスヌイら前衛芸術家を「西側イデオロギーに侵された逸脱者」として罵倒した上、その作品を「ロバの尻尾で描いたようだ」としてこき下ろした。
一方、「反体制作家」の烙印を押され、当局からにらまれていた作家のアレクサンドル・ソルジェニーツィン(ノーベル文学賞受賞)を擁護したり、「ソ連水爆の父」と呼ばれたアンドレイ・サハロフ(ノーベル平和賞受賞)の進言を聞き入れて核軍縮を行うなど、後世評価されるような業績も残した。
外交
「雪融け」とキューバ危機
フルシチョフはアメリカ合衆国やフランスなどの資本主義諸国との平和共存外交を進め、1959年にはソ連の指導者として初めてアメリカに公式訪問し、アメリカのドワイト・D・アイゼンハワー大統領との友好的な関係を築くことで、冷戦下の世界に一時的な「雪融け」(w:Khrushchev Thaw、雪どけ (小説) の記事も参照)をもたらした。
その一方で、1959年のキューバ革命後に同国の政権を握ったフィデル・カストロとの関係を深め、1962年に起きたキューバ危機ではアメリカとの戦争の瀬戸際まで進むことになるが、寸前で譲歩し戦争を回避した。1960年に起きた「U-2撃墜事件」ではアメリカと激しく対立、翌1961年に行われたウィーン会談では、アイゼンハワー大統領の後を継いで第35代アメリカ合衆国大統領に就任したジョン・F・ケネディ大統領と会談を行ったものの、ベルリンの処遇について対立し、その後の「ベルリンの壁」の構築につながった。
社会主義国との関係
スターリン時代のソ連と対立していたユーゴスラビアとの関係を正常化させるもハンガリー動乱に軍事介入し、スターリン批判およびデタントは東ヨーロッパ諸国の自由化や同盟離脱の容認を意味するものでは無いことを示した。毛沢東率いる中華人民共和国にはソ連の指導者では初めて訪問して、原子爆弾の開発で協力するも、毛沢東はフルシチョフの脱スターリン路線を「修正主義」であると批判して中ソ対立が始まり、同様に教条主義的なエンヴェル・ホッジャ率いるアルバニアとも1961年に断交して軍事衝突寸前まで行くこととなる[注釈 1]。金日成率いる北朝鮮には8月宗派事件で中国とともに内政干渉を行って対立したことはあったものの、北朝鮮との軍事同盟を拒んだスターリン時代と一線を画してソ朝友好協力相互援助条約を締結した。
第二次中東戦争では、フルシチョフは第一次中東戦争で衛星国のチェコスロバキアを通じてイスラエルに武器を支援(イスラエル=チェコスロバキア武器取引)していたスターリンと一線を画し、アラブ社会主義を掲げるガマール・アブドゥル=ナーセルを支持してチェコスロバキアを通じてエジプトに軍事援助(エジプト=チェコスロバキア武器取引)を行った[4]。アスワン・ハイ・ダムの建設にも協力した。これはアラブ諸国にソ連の影響力をもたらした一方で、アラブ冷戦の構造もつくりだした。
日本との関係
日本との関係については、日ソ交渉を行った時の最高指導者である(詳細は日ソ共同宣言にあり)。フルシチョフは晩年に記した回想記の中で、平和条約締結後とはいえ歯舞・色丹の引渡しに合意したのは、漁民と軍人しか利用していない島で防衛的・経済的にあまり価値が無く、これらを引き換えに日本から得られる友好関係の方が極めて大きいと考えており、戦後の日本の経済成長を羨んで「ソ連がサンフランシスコ講和条約に調印しなかったことは大きな失策だった」「たとえ北方領土問題で譲歩してでも日本との関係改善に努めるべきであった」と述べていた。フルシチョフは「日本との平和条約締結に失敗したのは、スターリン個人のプライドとモロトフの頑迷さにあった」と指摘している。この件は結局フルシチョフ本人の政治的配慮によって回想記からは削除されたが、ゴルバチョフ政権でのグラスノスチによって1989年になって初めてその内容が公開された[5]。
エピソード
フルシチョフは激情家として知られ、国際的な舞台で話題を呼ぶ事件をいくつも引き起こした。有名なもののひとつは、1956年11月18日にモスクワのポーランド大使館でのレセプションで、西側諸国の大使に向って「あんたらを葬ってやる」(ロシア語: Мы вас похороним!)との暴言を吐いたことである。
他にも1960年10月12日の国際連合総会で、ソ連代表の提出した「植民地主義非難決議」に対し、フィリピンのロレンソ・スムロン代表が「ソ連の東ヨーロッパ諸国への関与こそ正に植民地主義であり非難されるべき」と逆襲したことに怒ったフルシチョフは、腕時計が壊れるほど拳で机をバンバン叩き始めてスムロンの演説を妨害した事件[6] がある。
また、1959年7月にアメリカのリチャード・ニクソン副大統領がモスクワを訪問した際に、博覧会会場に展示してあるアメリカ製のキッチンおよび電化製品を前にして、ソ連の人工衛星である「スプートニク」の開発成功・アメリカにおける宇宙開発の遅れ・アメリカの自由経済とソ連の計画経済を対比し、資本主義と共産主義のそれぞれの長所と短所について討論した。この際に、ニクソンは消費財の充実と民生の重要性を堂々かつ理路整然と語ったのとは対照的に、フルシチョフは自国の宇宙及び軍事分野における成功を感情的にまくしたてた。その討論内容は後に「台所論争」(キッチン討論)として有名になった。
失脚
フルシチョフによる集団指導体制を無視した自らへの権力の集中(第一書記と首相の兼任)、さらには前述のように同志に対する叱責や暴言や外国での粗野な振る舞いを繰り返したため、ひそかにニコライ・イグナトフ、アレクサンドル・シェレーピン、ウラジーミル・セミチャストヌイ、レオニード・ブレジネフらが中心となった反フルシチョフ・グループがフルシチョフの追い落とし、あるいは暗殺を着実に準備していった。ブレジネフはフルシチョフの毒殺や専用機の爆破をも企んだとも言われている[7]。
宮廷クーデターの噂は密かに広がっていて、一部のフルシチョフ信奉者はその情報をフルシチョフ本人に届けようとして、息子のセルゲイや娘のラーダに接触した。セルゲイは父と相談するものの、フルシチョフ本人は馬鹿げた話だとして取り合わなかった。
1964年10月、黒海沿岸のリゾート地ピツンダで休暇中のフルシチョフとアナスタス・ミコヤンは、ミハイル・スースロフ(一説ではブレジネフ)からの突然の電話で「火急の農業問題を話し合うための臨時の中央委員会総会」のためにモスクワに呼び戻された。10月13日および14日に開かれた臨時の中央委員会総会で、ミコヤンを除く幹部会員全員がフルシチョフの更迭を要求した。ミコヤンはフルシチョフの第一書記からの解任と閣僚会議議長への留任を提案したが、この提案は否決された上、ミコヤンは多くの中央委員から強い非難を受けた。
孤立無援となったフルシチョフは、年金生活に入るために「自発的に」党中央委員会第一書記と閣僚会議議長の両方を辞任することに同意した。後任にはブレジネフとアレクセイ・コスイギンがそれぞれ選ばれたが、これは、第二書記であったブレジネフと閣僚会議第一副議長であったコスイギンがそれぞれ昇格した暫定的な意味合いの濃い人事であった。
フルシチョフ追放の黒幕であったシェレーピンとセミチャストヌイは、権力に対する野心が余りに露骨であったために疎まれ、党の指導部から外された。イグナトフは小者だったので無視された。フルシチョフと親しかったミコヤンも指導部から排除された。その結果、ブレジネフ、コスイギン、ニコライ・ポドゴルヌイのトロイカ体制による長い停滞の時代が始まることになる。
フルシチョフが用いた「第一書記」の肩書きはブレジネフが最高指導者の地位を引き継いだ後も継続して用いられたが、この呼び名に対する党幹部の不満が噴出したため、1966年4月に開かれた第23回党大会でスターリン時代の名称である「書記長」の肩書きが復活した。
年金生活と回想録
引退後のフルシチョフは、公式には1966年まで党中央委員会のメンバーとしての地位はあったものの、恩給と運転手つき自動車を与えられ、モスクワ郊外の国有ダーチャ(別荘)に住まわされた。移動の制限は受けなかったが、ダーチャの至るところに盗聴器が仕掛けられており、生活は当局の監視下にあったため、事実上軟禁状態にあった。年金生活中、フルシチョフは回想をテープに録音し、息子のセルゲイ・フルシチョフらがテープをタイプライターで書き起こした。キリレンコらソ連の指導部はフルシチョフを呼び出して回想録の執筆の中止を要求するが、フルシチョフはこの要求を拒絶した。この結果、息子のセルゲイ・フルシチョフや娘婿のアレクセイ・アジュベイは、当局から様々な嫌がらせを受けることになった。セルゲイはミサイルの専門家であったが、転職を余儀無くされた。
1970年7月にはフルシチョフの入院中に国家保安委員会(KGB)が息子のセルゲイを騙して回想原稿とテープを押収することに成功するが、テープと原稿のコピーは既にアメリカのタイム社にひそかに送られており、セルゲイは西側での出版という形でKGBに報復した。なお、セルゲイが西側に原稿を送るのを仲介したのは実はKGB自身であり、その代償としてフルシチョフ自身が回想録の内容の一部削除(取り引き)に応じたという噂がある。この噂が真実かと問われたセルゲイは「その質問の重要性は理解するが、いかんともしがたい事情から、それに答えることはできない」と述べている[8]。
回想録が西側で出版されると、激怒したソ連の指導部はフルシチョフに新聞のプラウダ紙上で「回想録はニセモノである」との声明を発表させた。実際のところタイム社は、回想録がニセモノでないかどうか、すなわち仲介相手からニセモノを掴まされていないか非常に気を揉んでおり、そのため同社はフルシチョフの回想を録音したテープの声紋分析を徹底して行っており、少しでもテープが途切れた部分はその都度鑑定しなおす必要があったことから、声紋分析の数は数千にも及んだ。
死去と記念碑
7年間の年金生活の後に、フルシチョフは1971年9月11日にモスクワの病院で死去した。しかし歴代の要人が埋葬されている赤の広場脇には埋葬されず、モスクワにあるノヴォデヴィチ修道院の墓地に埋葬された。
当局との数年に渡る戦いの末に、家族らは墓地に記念碑を建てることを許されたが、その設計を請け負ったのはフルシチョフがマネージ展覧会ホールで罵倒した彫刻家エルンスト・ネイズヴェスヌイだった。記念碑の黒と白のデザインは様々な憶測を呼んだが[注釈 2]、ネイズヴェスヌイはセルゲイ・フルシチョフに「白と黒の組み合わせは、統一と死に抗する生の戦いとを象徴する」と述べている。ネイズヴェスヌイはこの記念碑の仕事を引き受けたことが主として災いし、ブレジネフ政権下で様々な迫害をうけることとなり、1976年にスイスへの亡命を余儀無くされた。
1984年に死去したフルシチョフの妻であるニーナ・ペトロブナも、ノヴォデヴィチ修道院のフルシチョフの隣で眠っている。なおソビエト連邦が崩壊した後もフルシチョフの遺体は赤の広場に移されず、ノヴォデヴィチ修道院の墓地に埋葬されたままである。
家族
1914年に最初の妻となるエフロシーニャ・ピサレワと結婚した。エフロシーニャはロシア内戦の最中の1921年に飢餓・衰弱・チフスが重なって亡くなる。2人の間には娘のユリヤ(1918年没)と息子のレオニード(1943年に戦死)がいた。
1922年にマルシアという名前の17歳の女性と再婚するが、すぐに離婚する。
1924年に3度目の妻となるニーナ・ペトロブナ・クハルチュクと結婚(ただし正式な届けを出したのは失脚後の1960年代後半になってからである)。2人の間には、息子のセルゲイ(2020年没)、娘のラーダとレーナ(1972年に病死)がいる。
ニューヨーク大学で教授を務めるニーナ・フルシチョワはひ孫である[9]。
逸話
- 回想録を出版したアメリカのタイム社は、軟禁状態にあったフルシチョフと接触するのに、仲介者を通さなければならなかった。回想録がフルシチョフ本人が書いたものであることの確かな証拠が欲しいタイム社は、真っ赤な帽子を仲介者に預け、フルシチョフ本人がその帽子をかぶっている写真を撮影して送るようにと依頼した。帽子を届けられたフルシチョフは、その帽子が贈られた意図を知ると発案者のウイットに敬服し、事情を知らない家族が反対する中、進んでその派手な帽子をかぶって写真撮影にのぞみ、家族の反対を煽ってむしろ面白がっていたという。
- フルシチョフは権力の座にあったとき、ろくに仕事をせず部下にほとんど丸投げの状態だったという。訪仏の際ド・ゴールと船遊びを楽しんでいた際、「あなたは一体いつ仕事をしているのか? ソ連政府の発表ではあなたの予定はほとんど国内外の旅行や会見だ。一体いつ書類に目を通しているのですか?」と尋ねると、「私は働きませんよ。わが党の規約では65歳以上の者は1日6時間、週4日働けば良いと定めています。私は66歳ですから旅行や会見で十分なのです。政務は全て国家計画があらかじめ決定しています」と答え、ド・ゴールを唖然とさせた。ただし息子のセルゲイによる回想録では、フルシチョフは秘書官による頻繁なブリーフィング・タス通信の新聞記事の要約を読ませたりする・上映中止処分を受けた映画を自分の目で直接見たりする様子が描かれている。また、フルシチョフは殆ど全てを自分で決定しないと気が済まなかったことが主意主義や主観主義だと批判されており、こうしたイメージは、「仕事を丸投げにしていた」というイメージとは必ずしも一致しない。
- 失脚後、党中央委員会に呼び出されて回想録の執筆中止を求められたフルシチョフは、その命令に激怒して怒りを爆発させた上に、ブレジネフ指導部の政治をこき下ろす大演説をはじめた。さらに、ダーチャの至るところに盗聴器が仕掛けられていることを「憲法違反」と指摘したうえで「便所にまで盗聴器を仕掛けるとはな! 君らは国民の税金を使ってワシが屁をするのを盗み聞きしておるんだぞ!」と怒鳴りつけた。
著書
- 『十月革命の四十周年』西原五十七訳. 日月社, 1958.
- 『共産主義への移行 フルシチョフ論文集』高橋勝之・村田陽一編訳 合同出版社, 1958.
- 『ソ連の新七カ年計画と学制改革』ソビエトニュース社編集部訳. ソビエト・ニュース社, 1958.
- 『フルシチョフと語る 11人の記者の対談記』高橋勝之等訳. 新日本出版社, 1958.
- 『英和対照フルシチョフ会見記』ウォルター・リップマン 黒田和雄訳. 原書房, 1963.
- 『平和共存か熱核戦争か』ノーボスチ通信社訳編 駿台社, 1963.
- 『ロバの尻尾論争以後』英・エンカウンター誌編 直井武夫訳. 自由社, 1963.
- 『社会主義と共産主義 論説選集 1956-1963年』駿台社編集部訳. 駿台社, 1964.
- 『帝国主義は人民と平和の敵 論説選集 1956-1963年』駿台社編集部訳. 駿台社, 1964.
- 『フルシチョフ経済論集 第1巻』フルシチョフ経済論集刊行会訳. 刀江書院, 1964.
- 『フルシチョフ言説集』日刊労働通信社編. 日刊労働通信社, 1964.
- 『フルシチョフ毒舌警句名言集』鈴木啓介・水野俊彦共編. アサヒ芸能出版, 1964. 平和新書
- 『民族解放運動 論説選集 1956-1963年』駿台社編集部訳. 駿台社, 1964.
- 『労働運動と共産主義運動 論説選集 1956-1963年』駿台社編集部 訳. 駿台社, 1964.
- 『フルシチョフ回想録』ストローブ・タルボット編 タイムライフブックス編集部訳(タイム・ライフ・インターナショナル, 1972年)
- 『フルシチョフ秘密報告「スターリン批判」』志水速雄訳(講談社学術文庫, 1978年)
- 『フルシチョフ――最後の遺言』佐藤亮一訳(河出書房新社, 1975年)
- 『フルシチョフ――封印されていた証言』ジェロルド・シェクター,ヴャチェスラフ・ルチコフ編 福島正光訳(草思社, 1991年)
脚注
注釈
出典
- ^ “「現代社会文化論」講義録ペレストロイカと文化 (1) ”. www.waseda.jp (2018年10月12日). 2018年10月12日閲覧。
- ^ 伊東孝之 編『ポーランド・ウクライナ・バルト史』井内敏夫、中井和夫 編、山川出版社、1998年。ISBN 978-4-634-41500-3。 NCID BA39089582。
- ^ セルゲイ・フルシチョフ『父フルシチョフ 解任と死』(草思社、1991年刊)。
- ^ Gaddis, John Lewis (1998) p. 171.
- ^ ニキータ・フルシチョフ『封印されていた証言』(草思社、1991年)。
- ^ “ソ連時代の神話を検証する:国連でフルシチョフは靴で机を叩いたか?”. jp.rbth.com (2018年10月11日). 2018年10月12日閲覧。
- ^ ソ連崩壊後のV.A.スタルコフによるセミチャストヌイへのインタビュー。
- ^ セルゲイ・フルシチョフ『父フルシチョフ 解任と死』。
- ^ ニューズウィーク2022年12月6日-2023年1月3日, p. 18.
参考文献
- “戦争と平和と悪しきポピュリズム”. ニューズウィーク日本版(2022年12月6日号-2023年1月3日). CCCメディアハウス. (2023-1-3).
関連文献(日本語)
- スターリンの亡霊とフルシチョフ バートラム・ウルフ 原子林二郎訳 時事通信社, 1957. 時事新書
- フルシチョフ V.アレクサンドロフ 杉山市平訳. 平凡社, 1958.
- ニキタ・フルシチョフ マイロン・ラッシュ 安田志郎訳 時事通信社出版局, 1959. 時事新書
- フルシチョフ遠征従軍記 大宅壮一 新潮社, 1960.
- フルシチョフじかに見たアメリカ コミュニスト,資本主義国へ行く A.アジュベイ等 江川卓訳 光文社 1960 カッパ・ブックス
- フルシチョフのソ連 H.E.ソルスベリー 原子林二郎訳. 時事通信社, 1960. 時事新書
- 魅力ある怪物 フルシチョフ 沢田謙 日本週報社, 1960.
- スターリンからフルシチョフへ イタリー共産党員の見たソ連の内幕 ギウセッペ・ボッファ 石川善之助訳 1961 三一新書
- フルシチョフ君の挑戦 アヴェレル・ハリマン 大谷正義訳. 自由アジア社, 1961.
- フルシチョフと毛沢東 土居明夫 時事通信社 1961. 時事新書
- フルシチョフの手法 フランク・ギブニー 原子林二郎訳. 時事通信社, 1961. 時事新書
- フルシチョフ時代 続スターリンからフルシチョフへ ジュセッペ・ボッファ 石川善之助訳 1962. 三一新書
- フルシチョフと毛沢東 安東仁兵衛等 合同出版社, 1963. 合同新書
- フルシチョフ首相との三時間 私の訪ソ手記 河合良成 講談社, 1964.
- フルシチョフ その政治的生涯 E.クランクショー 高橋正訳. 弘文堂新社, 1967.
- フルシチョフ権力の時代 ロイ・A&ジョレス・A.メドベージェフ 下斗米伸夫訳 御茶の水書房, 1980.7.
- 危機の年 1960-1963 ケネディとフルシチョフの闘い(上下) マイケル・ベシュロス 筑紫哲也訳 飛島新社, 1992.7.
- 父フルシチョフ解任と死 (上下)セルゲイ・フルシチョフ、ウィリアム・トーブマン編 福島正光訳 草思社, 1991.11.
- ベルリン危機1961 ケネディとフルシチョフの冷戦(上下) フレデリック・ケンプ 宮下嶺夫訳 白水社, 2014.
外部リンク
- 「個人崇拝とその結果について」 1956年2月25日、第20回ソ連共産党大会における「スターリン批判」演説の全文(ロシア語)(2002年1月16日時点のアーカイブ)
- Khrushchev's Secret Speech -- Full Annotated Text(上記演説の解説付き英訳)(2002年1月13日時点のアーカイブ)
- A "Stalinist" rebuttal of Khrushchev's "Secret Speech" from the CPUSA, 1956(2003年5月4日時点のアーカイブ)
- [1], Film chronicles the plot to expel Nikita Khrushchev from his post as KPSS Secretary General.
- Biography and Pictures
- "Tumultuous, prolonged applause ending in ovation. All rise." Khrushchev's "Secret Report" and Poland
- 『フルシチョフ』 - コトバンク
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- ニキータ・フルシチョフ
- 第1回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第2回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第3回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第4回ソビエト連邦最高会議の代議員
- 第6回ソビエト連邦最高会議の代議員
- ソビエト連邦共産党中央委員会書記長
- ソビエト連邦共産党モスクワ市委員会第一書記
- ソビエト連邦共産党モスクワ州委員会第一書記
- ソビエト連邦の首相
- ウクライナ共産党中央委員会第一書記
- ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の首相
- ロシアの無神論活動家
- 社会主義労働英雄
- ソビエト連邦英雄
- レーニン勲章受章者
- 労働赤旗勲章受章者
- スヴォーロフ勲章受章者
- クトゥーゾフ勲章受章者
- 祖国戦争勲章受章者
- レーニン平和賞受賞者
- カール・マルクス勲章受章者
- ブルガリア人民共和国英雄
- ゲオルギ・ディミトロフ勲章受章者
- スフバートル勲章受章者
- ロシア帝国のウクライナ人
- クルスク県出身の人物
- 1894年生
- 1971年没
- タイム誌が選ぶパーソン・オブ・ザ・イヤー